宗教の うさん臭さを 見る部分(5・7・5)
1歳死亡 悪魔払いと称し暴行か 1歳児の悪魔を払うとして行った儀式で1歳児が死亡した事例がある。
まずはなくなった赤ちゃんの冥福を祈りたい。親は選べないので、残念ながらほぼノーチャンスだったのだろう。
占いや宗教の類、疑似科学や似非科学、投資話から噂話まで。信じる人にとってはとりあえず影響があるのは事実であろう。プラシーボも含めて。
一方で「信じてない人」にとっても影響があるのならおそらく物理的な事実や現実であり、本物だということだろう。
信じるかどうかはこの事例のように時に人生を左右する。
宗教などで私がアウトにする目安は「教祖が良い生活をしている」「無駄に良い建物を持っている」「組織化されていて上下関係がある」の3つだ。
絶対的な存在である神はほぼ∞の存在だろう。無限大の存在から見れば教祖も人間の一種類に過ぎない。あるいは教祖自身が神にも等しい力を持っているなら人間のお布施などそもそも不要だ。(たしか現実の一休さんがみすぼらしい格好で邪険にされて、立派な袈裟を着ていったら丁重に扱われたので「袈裟を崇めるように」と皮肉を言った逸話があったはずだ)
無駄に良い建物も同様で。俗世の人間の財産や金銭的なものなどによる時点で個人的には「胡散臭い」と思う。純粋に信仰で勝負すればよいのに。信者が集まるだけなら体育館程度の広さがあればよかろう。華美な装飾がなぜ必要なのか? それなら、その立派な建物を崇拝すればよいのだ。
組織化されていて上下関係があるのも、それは「人間にとって都合が良いから」であって、神のような絶対的存在がそんなチンケな「俗世の手法」に頼ることに違和感がある。教えに詳しい「先輩と後輩」くらいならまだしも納得がいくのだが。「信仰度合いによってステージを設ける」というのがいかにも「人間的」ではなかろうか。
なお「教義」「何を教えているか」はほぼ目安にならない。詐欺師でも「言うことだけは立派で正しい」なんてーのは枚挙にいとまがない。言動のうち「動」のほうをよく見るべきだろう。