充足した人生のために

世間や他人が何と言おうが、自身が素晴らしいと感動できる存在や作品・・・それは映画だろうが人物だろうが哲学や宗教だろうがなんでもいい。

そういった存在に出会えた時間は人生において実に貴重な時間だと言える。

この前提に「可知不可知」「領域責任」あたりを組み合わせて展開したい結論がいくつかある。

①他人が心棒するものを不用意に貶すものではない。
自分が大切に思うものを、たとえ根拠があっても貶されるのは不愉快だろうし、根拠すらない場合は論外だろう。
この意味ではたとえば「ISの方々の信仰」や「シーシェパードの主張」すら私は許容できる。彼らが彼らの領域で信じている限りにおいてはだが。

②自分が心棒するものを他人が貶しても必要以上に気にしない方が良い。
他人がそういう感想を持つのは他人の領域にある。立場や価値観の相違は当たり前のことだ。相手の事実誤認や歪曲が明らかならば証拠を突き付け、第三者の前でさらし者にしてやればよい。

③自分の認識範囲を広げよう
せっかく感動できる対象があってもそれを認識できていなければ感動することもできない。認識範囲を広げるには様々なことに興味を持ち、特に他人との交流を重視すべきだろう。

④自分の許容範囲を広げよう。
「そういうのもありか」「自身の好みとは違うけど完成度は高い」と言えるかどうか。許容範囲が広ければより多くの人と軋轢なく交流できる。相手がどう思ったかを自分がどう思うかは「自分の領域」だ(ややこしいなw)。 自分の領域にあることなら自分がコントロールできるものだ。

⑤正解や幸福かどうかは自分自身で選び取る。
世間一般の常識や統計、相場は「目安にはなる」が「目安でしかない」。

①⑤はアウトプット、③④がインプット、②が「イウトプット」になろうか。

自分の感動を他人と共有したいと思うのは自然な感情だろう。その表現手段は創作活動かもしれないし、ネットでのつぶやきかもしれないし、恋人へのささやきかもしれないw。

アウトプットまでが「充足した人生」なのだろう。私のこの記事もそうだ。

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ハナー
CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。