基本はオープンバカであるべき
なんらかの精神病質の人間や特定の民族が罪を犯した場合の報道について。
その属性をあるがままに伝えることの是非。
皆が情報に接してはじめて様々な意見や価値観の多様性、議論の活発化が期待されるわけで。「報道によって偏見が助長される、だから報道するべきではない」というのは報道されないことによって失われるメリットがあることへの配慮不足だと感じる。
やれ「不謹慎だ」「差別だ」と騒ぎ立てて、「事実のありようから目を背けるやりかた」をするのではなく、偏見を生むという事実とも向き合ったうえで、それをどう解決していくか?としなければ、それこそ偏見はなくならないのではないかなぁ。
まるで「問題文を見ずに問題解決を祈る」ような要領の悪さを感じる。問題があるならまずは問題をちゃんと認識するところからであろう。いたずらに「この症状のせいで犯罪を起こした!」などという決めつけをするのは論外だが、犯罪者がどういった経緯で犯罪を起こしたのか?という核心部分を探る前に「触れてはいけない部分」を作るのは実に非効率だと思う。
むろん、私のこの意見は「理想」に過ぎない。「現実」には生じる課題が多々あるだろう。それでも目指すべき理想への道筋を閉ざすようなやり方には首をかしげざるを得ない。意見封殺ばかりではそれこそ言論統制国家や独裁国家に性質的に近づいてしまう。
「〇〇人の××が野菜を盗みました」というのは単なる事実だから報道すべきであろう。基本はその「個人」の問題ではあるが、その結果があまりに多く傾向が強く出てくれば、その人物が属する集団に対して区別的な対応をせざるを得ないかもしれない。たとえば、タリバンの戦闘員に対しては、まだ罪を犯していないとしても慎重に対処せざるを得ない。
「偏見やらヘイトやらを認めろ」と言ってるのではないので誤解なきように。