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町内会・自治会の「上」に存在する組織



1. 校区自治連合会

校区

2. 小倉南区自治総連合会

3. 北九州市自治会総連合会


4. 会則上の注目すべき点

校区自治連合会の会則では、上の「市・南区総連合会」との関係について「連携協力」という表現を使っている。

これに対して、校区自治連合会から連携協力の相手として位置づけられた区自治総連合会の会則では、校区自治連合会との連携協力ではなく、非対称的に、下の校区自治連合会間の「相互の緊密な連携協力と親睦融和を図る」という目的が掲げられている。

本来的には、校区自治連合会間のことは校区自治連合会同志で取り組むべきことではないだろうか。「上」の団体によるお膳立てが必要という発想なのであろう。

区自治総連合会の目的に出てくる、校区自治連合会間の「親睦融和」という表現がよくわからない。「親睦を深める」ことと「融和をはかる」こととを並列しているのだろうか。そもそも個人間のことではなく団体間のことなので、どういうことなのだろうかと思う。

区自治総連合会の会則には、校区自治連合会事業の「指導推進」(第4条(2))とあるが、常識的には、区総連合会に校区連合会を指導する権限があるわけではないであろう。また、指導と推進とが並列されているが、語義をどのように区別しているのだろうか。

区自治総連合会が校区自治連合会の事業を指導し推進するという意味であるならば、区自治総連合会と校区自治連合会とは、「連携し協力する」関係とは言えない。

北九州市自治会総連合会規約には、「末端行政の充実」とか「美しい風習」とか奇妙な表現が目につく。これについては6月29日付けの記事(ココログ)で以下のように書いた。

「末端」が重要だという考えであれば、「末端行政」という言葉を使わないのではないか。また、「希求する」という言葉は、「市の末端行政の充実」というような表現とともに用いられるものだろうか。

「自主的に組織活動を助長する」という表現も、どこかおかしい。「美しい風習」とは「醇風美俗」のことだろうか。「善処協力する」という表現も意味が通りにくく、また、「組織の統一化」とは何のことなのか。

どんな時代に誰によって作られた規約なのだろうかと思う。

北九州市自治会総連合会の「正副会長会」で「市関係部局からの説明事項」の説明や、事務局(市職員が委嘱されている)からの報告等があり「意見交換」が行われる。「役員会」では、基本的に、事業計画や予算が、事務局作成の原案通り決定される——詳しい議事録は意味がないので公表されない

その決定結果は各区の自治総連合会に、上意下達の決定事項として通知される。同様にして、各区の自治総連合会から校区自治連合会へ決定事項が通知され、「末端」まで——「市民センター」や町内会・自治会にまで——影響力が及ぶ、というスタイルになっているのではないか。

Rehearsal for hybrid procedures in the Chamber of the House of Commons

5. 町内会の上にある団体について考えたこと

町内会・自治会は、「住民の自治組織」と言えるだろう。しかし、その上に3層ある団体は、「まちづくり協議会」も同様だが、そのように言うことはできない。

市町村は、「自治体」であることは明確であり、その長や議員は住民の選挙で選ばれている。選ばれる人の中には、老人もいれば若者もいる。選挙で得票数が相対的に少なければ落選して職を失うこともある。(「職業としての議員」というシステムには、色々な意味で問題があるかもしれない。総務省地方議会制度に係る論点が参考になる。)

北九州市自治会総連合会、各区の自治総連合会、校区自治連合会は、不思議な団体だ。再任回数に制限がない場合には、「オーナー社長」のように何十年もその団体の会長等を務めているケースがあるようだ。そして、「子飼い」の後継者たちを組織化している。町内会・自治会の場合にもしばしば見られることだが、「長老的・ボス的」なグループが支配する世界なのであろう。

また、「この団体における役職が地域における個人の社会的地位を決定し、この団体自体が一種の威光と権力の場である」(近江哲男)ということが当てはまるのであろう。

権力を持った長老たちの希求する「地域の活性化」というものは、権力を持たない人びとにとっては歓迎されざるものとなる可能性がある。

自治総連の事業の3番目に出てくる「美しい風習の育成」とは、長老による支配のことかもしれない。


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