“弱さを認める”の解釈違いについて

そう。
“反省して畏縮する”でもなけりゃ、
“反省して我慢する”でもないし、
“弱さを認めて弱い所を皆に合わせて、弱い所を無理矢理鍛える”でもないし、
“弱さを認めて皆に感謝して申し訳無さそうに暮らす”
でもないんだよね。

そこんとこしっかり伝えてあげないといけない種族がいる。
それが→私みたいな奴w

「自分の弱さを認める」って言葉だけでは、
【弱さを認めてその次どうすんの?】
って所で、見放される感じになるのよね😂
まだまだこの先曲がり角いっぱいあるのに、
「あとは大体わかるやろ」って、目的地かなり手前でカーナビに見放される感じw

“他人の他責・僻みをもろに受け止める事が「思いやり」”と思ってしまうような環境で育ってきて奴隷精神になってしまった人間は、
自動的にその先を“自力で進もうと”してしまうのよね。
親が比較的楽観主義で、
でも親が時折被害妄想に陥ってる事にも気付ける子供であっても、
一日の大半を過ごす集団生活の中でそうなってしまう。

黙って自動的に自力で進むと、
やはり、
黙って【奴隷の道】を選んでしまうんだよね。
それを【思いやり】と思い込んでしまうような“人間関係”“環境”に囲まれて【それが普通だ】と思い込まされ・思い込み、生きてきたから。

だから、
「“反省して畏縮する”でもなけりゃ、
“反省して我慢する”でもないし、
“弱さを認めて弱い所を皆に合わせて、弱い所を無理矢理鍛える”でもないし、
“弱さを認めて皆に感謝して申し訳無さそうに暮らす”でもないんだよ」
と、
【あんた、晴れやかにニコニコしてっけど、こっち行こうとしてるでしょ?そっちだけはちゃうで?】
と、安全第一バリケードフェンスを立ててあげないといけない気がする。

私はそれが必要だったけど、
今までそれをドンピシャで言ってくれる人は、支援者の中にもいなかったから、

ドンピシャの言葉でバズってくれてる人達に感謝しつつ、便乗して、
ここに書いておく。


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