服薬は“気づき”に必要
これは文句でも媚びでもなく。
精神科医の医師や心理士も人間だし、患者や他の人と同じように、それぞれの人生で染み付いた認知の偏り(言葉に込めるイメージ含む)は必ずあって、個人差はあれどその業界や職場における暗黙の了解にとらわれてしまっている事も当然あるだろうし、“患者の困り事の吐露に必要なヒント(情報)を出せてない”とか“患者自身の気付きを待ち過ぎる”とか“踏み込まなさ過ぎる”とか“時間に追われる”とかもありつつそれらを打開出来ないまま平常心を装いつつ独りで抱えて、型にはまった努力を続けてしまう事もそりゃあるだろうと、私は想像する。
患者の自己理解が上手く進まない中、患者の方から【患者の中に内在化された“普通”】に迎合していってしまう事もある。患者自身は“普通”と思っていても、患者の体感としては【カリン塔の頂上】なのかもしれない。
両者それぞれ手を尽くしても、同じ檻に閉じ込められているような膠着状態が続いてしまう事もあるだろな。お互い真面目だから、お互いコンサータも躊躇し続けたり。
でも、コンサータ服薬でその状況を打破できる事もあると私は思ってる。
知能のバランス由来の辛さの“体感”を知能検査で認識するのと同じように、長年常態化してる不注意や眠気も、服薬で一度“良い状態”を体験することで、“辛かったんだな”と“体感”を認識できる。私はそうだった。
認識できたということは、
【自分の特性や感度に合った“進む方向”“戻るべき地点”がわかった】ということなのだと思う。
その感覚を覚えておいて、そこに向かって過剰な緊張を解き、過剰な努力を工夫で削いで、それでも都合の悪い部分は人の手を借りる・システムを変える。など。
コンサータなしでも“コンサータあり”と同程度のQOLを保てるような社会になる/するのが理想だな