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学生十種選手から見えた箱根駅伝の重さ
対馬トラッククラブの林田章紀です。
この5年は元日からニューイヤー駅伝から箱根駅伝は現地観戦していたが、今年の正月は対馬で静かにテレビ観戦している。
初めて箱根駅伝を現地観戦したのは、大学3年生だった2009年の85回大会だったことを今でも覚えている。
記憶が正しければ、年内の授業終わってから順大の陸上競技場は箱根駅伝専用になり、長距離部員以外は競技場に入ることができない。エントリーメンバー入ることができなかった長距離部員はメンバーのサポートに回る。朝練の準備、ご飯担当、掃除などをする。そして、箱根駅伝数日前になるとメンバーは幕張に宿泊し、サポートは習志野大久保の公民館に本陣を構え、大会の準備を行う。
当時、林田は陸上部全体の主将になったばかりで、長距離ブロックの選手たちと交流を持ちたかったことと、前主将の松本啓典さん(1500mインカレ準優勝)の誘いもあって長距離ブロックの手伝いをすることにして一緒に習志野大久保に宿泊することにした。大久保は順大が習志野キャンパス時代の名残で本陣を置いていると教えてもらった。
長距離ブロックの選手たちと交流を持ちたかった理由として、陸上部全体の雰囲気の中に「長距離ブロックとその他のブロック」は別物という空気感がどこかあるからだ。
スポーツ推薦の枠でも長距離種目はそのほかの競技種目に比べて多かったり、強化費も選手の食生活や治療の状況などを見ているとかなり多かったように思う(当時は陸上部と長距離ブロックでは口座が違うと言われていたことに驚いた記憶がある)。順大は昔からトラック&フィールドのチームで長距離以外の種目でも全国や国際大会で活躍する選手は多い中で、長距離ブロックが優遇されていることをいいと思っていない部員も多かった。
そんな雰囲気に流されていた自分もいてあまり積極的に関わっていなかった長距離ブロックに関わることでチームに良い影響があるのではないかという考えだったように思う。
当時の順大は2007年に総合優勝(現監督の長門俊介さん、現コーチの今井正人さんの時代)。2008年は途中棄権。さらに予選会では12位でなんとか通過(記念大会により3校増枠よる)。2年前に優勝したチームとは思えない厳しいチーム状況だった。
特に2008年の小野裕幸さん(現前橋育英高校監督)の途中棄権(脱水による)はテレビで観ていて、昨年の山の神今井さんから急転直下でもかなり衝撃的だった。
2009年の箱根駅伝を1ヶ月前くらいに控えた11月頃だったと思う。練習を早く終えた林田は一番風呂に入るべく寮に帰って洗面器とバスタオルを持って大浴場に向かった(遅く入ると湯船が真っ白)。そこには小野さんが小さい方の湯船にお湯を溜めながら浸かっていた。なぜだかわからないが、それまで挨拶程度だった小野さんに「調子はどうですか?」と聞いてみた。小野さんは「まあまあ」みたいな返事だったと思う。色々聞いているうちに「今年はずっとなんだか腹の調子が悪くてな」と小野さんがこぼした。その時に今年の途中棄権を引きずっているのかなと感じた。そのあとはできるだけ競技の話はせず、「箱根が終わったら一緒にゲームでもしましょう!」という話で終わった。
話は箱根駅伝直前になる。1月1日の朝は習志野大久保に集まって長距離部員全員が集合する。部長や監督が話のあと、近くの神社までを走る「元旦ダッシュ」というものが行われており、林田もそれに参戦にした。その元旦ダッシュで一位になった者が次年の箱根に出走できるジンクスがあると言われていて距離は約1.5キロくらいだった。十種競技で比較的400や1500は得意種目だったので積極的に飛ばして600mくらいまではトップだったが、完全にスタミナ切れで結局最下位に終わった。しかし、この行事に参加したことで長距離部員との距離は近づいたように思う。
そして、箱根メンバーたちは最後の調整を終え、各々の区間に近いところに宿泊するために移動をする。
林田の同期は往路で1区の関戸、3区の山田が区間配置されており、その二人の応援に向かった。1区は品川と蒲田で3区は藤沢あたりに応援に行ったと思う。
往路の結果は18位でかなり厳しいものがあったが、5区の小野さんは区間2位(1位は柏原さん)で見事に2008年のリベンジを果たした。しかし往路で波乗れず、復路は21位で総合結果は19位だった。
復路は大久保の陣地に戻り、テレビで観戦しながら雑務を手伝うことになったが、昼過ぎには箱根のゴール大手町に向かうことになった。
昨日の品川や蒲田で「箱根駅伝って応援がすごいなー」と感じていたが、大手町は桁違いだった。まず大手町の駅から上がる階段も人だかりが半端ない。選手の応援しようにも歩道に人が何十にもなっていて見ることするできないし、応援や鳴物の音が無茶苦茶響いて声が届かない。こんな中を走っているのかと感じた瞬間だった。
駅伝が終わると、大手町の各所で大学関係者を集めて結果報告を行う。それが終わると、順大の場合は本郷キャンパスに移動し、大学のお偉いさん方を始めとした大学関係者やOBに正式な形で結果報告会を行う。当たり前だが、選手たちの表情は暗い。報告会が終わると、陸上部の寮に戻ることになる。
帰り道、前主将の松本さんから「林田も打ち上げに参加しなよ」と声をかけてもらえたので打ち上げに参加させてもらうことにした。
打ち上げは、寮の2階の広い和室で行った。簡単な食事やお菓子とビールなどを準備してくれていてみんなで飲んで1年の取り組みを労う機会のようだった。乾杯が終わって暫し歓談の時間があり、みんなで楽しく飲んでいた。
歓談が少し落ち着いたところで、反省と抱負のような形でメンバーたちが話をする時間になった。一人ひとりが箱根への想いを語るが、何か林田の中でモヤモヤが残るよう気持ちを3年生以下に感じた。
最後に話をするのは小野さんだった。
「去年の箱根で途中棄権してから、調子があんまり上がらなくてメンタル的にきていたけど、なんとか同じ5区で区間賞は取れなかったけど納得がいく走りはできたと思う・・・」
大体こんな感じので冒頭話をされていたと思う。
そして次の言葉を忘れない。
「正直、俺はもっと良い箱根駅伝で終わりたかった。1区山崎(4年生で準エース)で行って、2区を俺が走って、1・2区だけでも強い順大を見せても良かったんじゃないかと思う。俺らお前らを引き上げられなかったことも悪いけど、お前らだってもっと頑張れただろう。俺たちの箱根駅伝を返してくれ。」
怒りと悔しさの感情を滲ませながら涙ながらに話す小野さんを見て、この舞台にどれだけ憧れて、どれだけ努力して、どれだけ重圧を感じて目指してきたのか、
「来年も厳しい戦いになると思うけど、強い順大に戻れるように頑張れ。」
はじめて箱根駅伝というものの重さを知った瞬間だったように思う。
あくまでも箱根駅伝というものは関東の大学の駅伝大会である。しかし、平均視聴率30%のお化けコンテンツで通常の陸上大会に比べたらアリとゾウくらい違う。大きい大会小さい大会に偉いも偉くないも無いが、そのスポーツを求める数が違えば思いも数や深さも当然変わってくる。
大学3年生だった林田は箱根駅伝をというものの大きさと深さを肌で感じることができた時間だったと思う。
2024年、順大はシード落ち。そこから予選会は1秒差の死闘を経て本戦出場。2025年の今日は往路13位でシード権まで37秒。スローガンは「下剋上」シード権とは言わず、復路の順大見せて欲しい。