こね~ くと
岐阜県関市にある、とある建物…本町BASEにて「コネクト Vol.2」が開催される。告知は下記の通り。
コネクト vol.2
あ、それでいいんだ。
これもアリですか?
はい、アリアリですね 笑
【日時】2021/7/31土-8/31日 10:00〜16:00
【会場】本町BASE/岐阜県関市本町6丁目4番1(大垣共立銀行向い) TEL:0575-36-1391
【駐車場】市営安桜山駐車場
【主催】関 彩 / (仮)関市本町おもしろ会
【問合せ】事務局:大建met(平野・川本) TEL:058-212-3063 Mail:mail@netmet.jp
”日常の生活の中では、うっかり見過ごしてしまいそうな「もともとそこに在るもの」を見えるようにして再接続するプラットフォーム”をイメージとして着想したこのイベントは第2回目を迎える。
社長職を引退し知的障がいのある24歳になる息子と在宅を始めたころ、どっぷり社会生活に浸かっていた私は日常から離れて息子と家で過ごしていることに少しばかりの不安を感じていた。何かを「しなければ・したい」という気持ちが出てきたのと同時に事業所へ通えなくなった息子と共に居て、彼が今ここに存在していることを誰が知っているのか?と感じていた。
そんな時期に着想したのがこのイベントのテーマではあるが、時間を経るごとに私のその感覚は変化をしてきた。私自身が人から見えないところに存在している、息子も然り。と感じていた感覚は、初めに自身の存在から溶け出した。何か「社会的に役に立つ」ことをしないと見てもらえないという呪縛から離れ、息子と只いることに価値を見出せるようになっていった。そして「自分のやりたいことは何か」を探す旅は終焉を迎えた。特にやりたいことなどなく、しかし、何にでもなれる。と分かったのである。
そして、息子の存在は輝きだした。ずっといた。これからもいる。社会的に役立つ立たないで判断をしない感覚を得ていった。私にとっては「無用の大用」となっていった。
「荘子」人間世から一見無用とされているものが、実は大切な役割を果たしていること。不用の用。「無用の用をなす」
そして2月末。息子は先に逝ってしまった。
葬儀の1週間後に開催されたのが「コネクト Vol.1」である。参加の皆さんが息子をシンボリックな存在と捉えてくれ、私たち夫婦も葬儀直後にも関わらず寂しさを纏いながら笑って参加することができた。
年に4回ぐらいやろうというメンバーの方の宣言通り、こんなにも早くVol.2は開催される。今回は一切の企画から離れてはいるがメンバーに入れてもらっている。
Vol.1からVol.2の期間。ほんの数か月の間に、私はこの開催地本町BASEの臨時職員となり、息子の残した作品はあいちアールブリュット展で優秀賞をいただき、数々の場所で展示をされ多くの方々と出会った。そして、このコネクトVol.2の期間に全く別の企画(中部学院大学内)で個展を開催していただくことになった。偶然と呼ぶ方が全く不自然なくらいの出来事が起こっていった。
あれほど存在ということに囚われていたのにもかかわらず、彼の肉体が消えてからの彼の在り在りとした”ありさま”はなんと表現してよいか分からない。前述のnote(在ると無し)に書いた通り、あることとないことは表裏一体である。拘っているのは私自身で、すなわち客体側である。
このイベントが多様性やインクルージョンといった言葉に惑わされず、私たち自身が、私たちを主体として受け止めることができるきっかけとなればいいなと感じている。
私たちは社会にインパクトを与えたり、変革を促すようなことをしたいなどとは思っていない。スキームや計画にも惑わされず、社会的に意味のあることも求めず、ただ主体として自然の中に漂いたいだけなのである。繋がりという言葉も結構しんどい。すでにあるのだから、主体としての自分を感じることが出来れば、もともと在ったと気づくだけであるように感じる。大自然の流れを見てみれば、全てはもともと”どろどろ”とした同じ場所に在ったのだから。
渾沌という中には見えざる手あり。
静寂の森にあって縁という風が吹く。
無用の大海にあって用という波が立つ。
それは求めて、求めざらなるものなり。
求めずして、叶わざるものなり。
有為の中にありて、無為の理りなり。
※ここには私のストーリだけを記述した。