在ると無い
「あることないことを言う」という言葉があるのだよ。最近そればっかり考えている。
「ある」ことは言えるよね当然。「ある」のだから。
「ない」ことはどこにあるのだろう。
言葉にできるから、どこかに「ある」ことになるんじゃないか?「ない」って。
などと、うだうだ考えているのが好きである。
言葉というのは分別するために生まれたらしい。私の名前であれば、私と私でないものを区別するために。
世界(宇宙かも)は、もともと分別などなかったと容易に想像できる。ただドロドロしたものが交じり合って何かを生み出そうとしていたような様が。その渾沌とした状態から私たちは生まれてきた。そして「存在すべきもの」として「存在させられている」状態が万物として現れている。
人間は言葉を持った。ゆえに分別の中で生き、それを文明として育て上げた。それとそれでないもの。という無数の入り混じった言葉の中で交流を図り、自身を守り生きている感じがする。
言葉には相対した相手がいて、死であれば生、上であれば下。犬であれば犬ではないもの((猫や牛?)。単独で存在している言葉はなく何かと相対しているらしい。
前述に戻ろう。
“ある”という言葉がある。”ない”という言葉もある。スルーしがちではあるが、「ないがある」と言ってしまっているではないか!
“分別するがゆえにその間には隙間ができて、対立した争いが起こることは必然である” と、ある老師が言っていた。
正義・正論での対立(ひょっとすると戦いにもなる)は良くある話だが、どちらにとっても正義・正論が”ある”ので収拾はつかない。多いほうが勝つ。力があるものが勝つ。何も解決などはしていないのではないか。いや。解決しようとしてはいけないような気さえする。正しい、間違えなどの分別が”ない”世界は、どれほど平和なことか。
「ある」も「ない」も言葉による分別によって分けられてはいるが、もともと同じものではないかとこの時に感じた。いや”もの”でもないだろう。それにとらわれないで漂っていれば、心の安寧を感じることが出来そうだ。
中国の思想家「老子」はこう言っている。
埴しょくを挺せんして以もつて器うつわを為つくる。其その無むに当あたりて、器うつわの用よう有あり。
粘土をこねて器を作る。器の中の空洞があることによって、器としての働きがある。
「ない」部分こそ、その「ある」部分の働きがある。「ない」と「ある」はやはり働きあっていて一体であるようだ。それに私はしっくりきている。
人間。人体もきっとそう。自然から出て来たのだから。
長男を亡くして数か月。彼は輪郭のある存在としては「ない」ものへと変わっていった。しかし、言葉を超えた分別がない(無分別)の中にあっては、彼はやはり「ある」と確信する。大いなる自然という流れに沿って、脈々と流れる存在となって。言葉にした時点で何やら別の感覚になってしまうので不思議である。在るという言葉に引っ張られてしまうので、ただ感じるのがいいようだ。
私の大いなる関心は、彼の死という出来事から常に生という考えを走らせているようである。