ホトトギスの誤算
虫竜クインアントが闘技場の観戦に訪れる日はちょっとした騒ぎになる。町の端から端まで続いているのではないかと思うほどの物々しい行列の正体は、虫の国の外れにある彼女らの居城、巨大な『パレス』に住むシロアリ族の群れだ。お揃いの真っ赤な槍を携え、きびきびとした動きで先頭を行くのは一族を外敵から守る兵隊たち。その後ろに続くのは女王の身の回りの世話をするワーカーだ。四列縦隊の内側二列にワーカーがおり、その外側を兵隊たちが守っている。
シロアリ族の外見にはあまり個体差がない。誰もがみな似たような姿をしている。頭に生えた立派な二本の角、白い体、細い手足、特徴的な膨腹部。だがそれもそのはず、彼女たちは全員が同じ母親から生まれた姉妹なのだ。数百人に及ぶ『娘たち』はそれぞれに与えられた役割を果たし、たった一人の母親──女王を守る。
虫っ子闘技場に併設された定食屋で、名物の『フルーツとハチミツのスープ』に舌鼓を打っていた一匹のカニ人は、急勾配の坂道の上からやけに大勢の足音が近づいてくる気配を感じ、口もとに持っていこうとしていたスプーンを止めた。
「なんだか外が騒がしいカニね。今日はイベントでもあるカニ?」
隣のテーブルを片付けていた店員に声をかける。仕事を邪魔された事に苛立ったのか、その店員はチッと舌打ちしながら面倒臭そうに答えた。
「あんた、ここの元締めのあのヘンテコな種族だろ?」
「そうカニ」
客に対してその態度はどうなのかと思わないでもなかったが、とりあえず頷いておく。
「なのにクインアント様を知らないの?」
店員は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「誰カニ? そのクイニアマン様って?」
「クインアント様。シロアリ族の女王様だよ……本当に知らないの?」
「女王様……? 女王様が選手登録してるカニか?」
カニ人は驚いた。前例がないわけではない。現に虫の国の王族であるムカデ姫は選手として登録しており、しかもチャンピオンの座におさまっている。しかしこれはイレギュラーというか特例というべきケースであり、国を治める立場にあり、有事の際には民を導かねばならないお偉いさんがいちファイターとして闘うなど、本来ならあってはならない事ではないのか。
「クインアント様は選手じゃないよ。登録はしてない。ただ贔屓の選手がいるだけさ」
しかし店員は首を横に振った。
「応援に来てるんだよ。そのお気に入りの選手の試合がある日だけ。シロアリ族っていうのは、人虫の中でもめちゃくちゃ大家族の種族でさ。『パレス』っていうお城みたいな所に住んでる。女王様が応援に来るとお付きの連中もこぞってついてくるから、その度に行列ができるんだよ。町ではちょっとした見物だね。まあ、もしご本人が戦ったとしてもめちゃくちゃ強いだろうけど。なにせ竜の血を引いてらっしゃるお方だから」
「虫竜ちゃんカニか。それは確かに強そうカニ」
「あんた本当に何にも知らないんだな」
「実はつい最近引っ越してきたばかりなのだカニ。ぺーぺーカニ」
「なるほど、道理で」
「教えてくれてありがとうカニ。実に興味深い話を聞けたカニ」
お礼にチップを渡してカニ人は店を出た。そのまま通路を歩いて闘技場の出口をくぐる。今夜は上位ランカー同士の試合がある。カニ人の頭部を模して作ったテントの周りには沢山の屋台が並んでおり、試合前に小腹を満たそうとやって来た客を捕まえるべく、呼び込みの店員たちが競って声を張り上げていた。闘技場が人気を博してからというもの、この辺りでは夜毎に繰り返されている実に賑やかな光景だ。
「やっぱり試合のある日は活気があっていいカニね」
そう独りごちてからカニ人は、闘技場に背を向けて歩き始めた。
「……さて、早く準備しないといけないカニ。時は金なりカニ」
どんどんこちらに近づいてくるシロアリ族たちの行列に向かって、何事かの計画を胸に抱きながら、彼は足早に近くの乳幼児用品専門店へと入って行った──。
◆◆◆
「な、なんだコイツ……! おいお前、そんな所で寝転ぶなっ!」
先頭を歩いていたシロアリ人虫が戸惑ったような声を上げ、行列が突然停止した。異常を感じた兵隊たちがすばやく隊列を防御陣形へと切り替え、何人かが慌てた様子で列の先頭へと駆けつけてくる。
「どうした? 何があった?」
「コイツがいきなり道の真ん中に出てきたんだ。危ないからどけと言ったんだが……全く動かない」
そこには先ほどまで定食屋でスープを飲んでいたあのカニ人がいた。しかしどこか様子がおかしい。彼らのトレードマークである赤いボディが真っ白になっているのだ。しかもどこから持って来たのか、口には乳幼児が使うようなゴム製のおしゃぶりをくわえて道の真ん中に堂々と寝転がっている。
「ばぶばぶカニー! おんぎゃあカニー!」
突然の幼児退行。しかし気が狂ったわけではない。実はこのカニ人、つい先日闘技場の掃除のバイトをクビになったばかりなのだ。あまりに要領が悪すぎて上司であるちょび髭カニ人の逆鱗に触れたのである。彼は自分をクビにしたその上司を恨み、ムシャクシャした気分を晴らすべく闘技場の賭け試合にのめり込んだ。当然勝てるわけもなくあっという間に貯金を使い果たし、もう一度バイトさせて欲しいと談判しに行ったがあえなく撃沈。なけなしの所持金を使って定食屋でランチを食べている際、たまたま店員からクインアントの話を聞いてあるアイデアを思いついたのである。
──名付けて『ホトトギス作戦』。シロアリ族における女王とは、すなわちそのコロニーに居住するすべてのシロアリ人虫の母親であるはず。数百人もの娘を持つ母親となれば、さぞかし強い母性を持っているに違いない。そこでカニ人は考えた。赤ちゃんのフリをしてクインアントに庇護してもらおうと。そうすれば一生暮らしに困る事はない。同族の娘たちに衣食住は世話してもらえるし、恐ろしい外敵からも守ってもらえる。まさに理想の生活。成功すれば薔薇色の人生が待っている。失敗すれば恐らく無事では済まないだろうが、彼はこの危険なギャンブルに自分の命をベットする価値があると判断した。
「おぎゃあカニ! ばぶばぶカニィィィ!」
彼は恥も外聞もかなぐり捨てて渾身の赤ちゃんムーブに徹した。ここが自分にとっての人生の岐路だと、人生の正念場だと信じて。ついでにトレードマークの赤色も捨てた。さっき乳幼児用品店で買ったばかりのベビーパウダーを体中に塗りたくり、おしゃぶりをくわえたまま泣き真似をし続ける。周囲を完全にシロアリ人虫の兵隊たちに取り囲まれても、彼女らの眉間に深い谷のようなシワが刻まれても、冷や汗をダラダラ流しながら、それでも決死の覚悟でおぎゃばぶ演技をやめなかった。
「コイツ、一体何のつもりだ……?」
「わからない。だがふざけて女王陛下の行軍を止めたのは確かだ。それは許しがたい行為。さっさと追い払ってしまおう」
「そうだ、そうだ、なんなら首を刎ねてしまえ。そっちの方が早いだろ」
ぎらりと光る槍の穂先を向けられ、カニ人は恐怖で演技を忘れそうになった。ダメかもしれない。やはり自分に賭け事は向いていなかったのか。いやそんなはずはない。まだ運に見放されてはいないはずだ。泣き出しそうになりながらも、それでも一縷の望みに賭けてカニ人は半ば演技、半ば本気でおぎゃあおぎゃあと喚き続けた──その時だった。
「どうしたの。何の騒ぎです?」
声が聞こえた。それが鼓膜を震わせた瞬間、カニ人は泣き止むのをやめていた。その必要はないと感じたからだ。今置かれている状況も恐怖も何もかも忘れてしまいそうな、そんな優しさと慈愛のようなものを感じる声音。無意識に故郷であるマリアナ海溝をイメージしてしまうような、どこか不思議な懐かしさを覚える声。人垣をかき分けるようにして行列の後方から現れたのは、シロアリ人虫たちの女王──虫竜クインアントその人だった。
さすがは竜族の末裔というべきか、体躯は通常のシロアリ人虫の数倍はある。見上げるほどに大きい。どっしりとした膨腹部にはカニ人が百人は乗れそうだ。だが武器や防具の類は全く身につけておらず、代わりに刺繍や宝石がいっぱいついたベールやドレスのようなものを身につけていた。そして頭の上には竜種の証であり、その超常的な力の象徴でもある竜環が天使の輪のように浮かんでいた。
「陛下、怪しげな生き物が我々の進行を妨害したのです。こちらで対処致しますので、ひとまず安全な場所まで移動して下さい」
「あら、それは駄目よ。早くしないとあの人の試合が始まってしまうわ。いいからこのまま進むのです」
あっさりと意見を却下されたシロアリ人虫は困惑した表情を浮かべた。
「し、しかし、それでは陛下の身に危険が……」
「それなら心配ありません。それよりも今日の試合を私がどれほど心待ちにしていたか、あなたも知っているでしょう? さあ、行進を再開して──あら?」
クインアントは足下に転がっている何かに気付いた。それは全身から脂汗を流しながら必死の形相で赤ちゃんごっこを続けていたあのカニ人であった。
「……あら、あらあらあら……!」
クインアントは驚きに目を丸くしたまま、カニ人のパウダーまみれの白い体を地面から抱き上げ、そのままひしと腕の中に抱きしめた。突然の抱擁に驚くカニ人。しかし全く悪い気はしない。それどころかむしろ居心地がいい。クインアントの体は思わずウトウトしてしまうほどに柔らかで温かくて、そしてとてもいい匂いがした。
「まあ、どうしてこんな所に私の赤ちゃんがいるのかしら⁉︎」
クインアントは驚きの声を上げた。
「こんな寒い所で可哀想に……さあ、もう大丈夫ですからね。私の腕の中であっためてあげます。だからもう泣かないで。お姉さんたちと一緒に試合を観に行きましょうね」
ふんわりとした柔らかさと温かみの中に包まれながら、勝った……とカニ人は思った。やはり予想は正しかった。クインアントの母性は同族だけではなく、小さくてか弱い生き物すべてに向けられていた。完全にカニ人の事を自分の赤ん坊だと勘違いしている。心から。毛ほどの疑いもなくそう思い込んでいる。母性が暴走しているのだ。
女王の腕の中から周囲のシロアリ人虫たちを見下ろしてみる。皆一様にポカンとした顔をしていた。明らかに同族の赤児ではないと分かっていながら、しかし女王の発言を無碍にするわけにもいかず、彼女たちはどうすればいいか決めかねている様子だった。
「さあ、こうしている場合ではありませんよ。ぐずぐずしていたら試合が始まってしまいます。みんなで応援しに行きましょう」
穏やかだが、それでいて有無を言わせぬ雰囲気を感じさせる口調で女王が号令を下した。すると戸惑っていた眷属たちが一斉に動き出す。まるで一つの意志によって操られているかのような統率の取れた動きで、再び闘技場に向かって行進を開始した。混乱も、疑問も、女王の言葉の前では雲散霧消する。彼女たちは忠実な手足だ。手足は頭の命令によって動く。クインアントこそがシロアリ族における頭であり、全ての判断を下す『意志』そのものであった。
──やったカニ。上手くいったカニ。あとは『パレス』とやらに辿り着くだけカニ。
クインアントの腕にしがみつきながらカニ人はほくそ笑んだ。彼の考案した『ホトトギス作戦』は最終段階に入った。この作戦の最後にして最大の要点、それはシロアリ族のコロニーである『パレス』に入り込み、その奥深くにいるであろう次代の女王候補を追い出して入れ替わる事にある。それはまさにホトトギスなどのカッコウ科の鳥類が托卵し孵化した雛が、巣の持ち主の卵や雛を追い出して殺してしまうようなもの。そうすればこのカニ人は次期女王候補となり、身の回りのすべてをワーカーたちによって世話され、常に栄養価の高い食物を優先して与えられ、いずれは一族の王になる事ができる。それこそが計画の全貌であった。
──フフフ、まだ笑っちゃ駄目カニよ。まさかここまで上手くいくとは思っていなかったカニ。地上にいる時に記憶共有で色々な生き物の事をしっかり勉強しておいてよかったカニ。
闘技場での観戦を終えたクインアント一行は、心地良い疲労と満足感を覚えながら帰路についた。町を抜け、森を抜け、やがて視界に入ってきたのは天を衝くような巨大な塔。外観はスペインのバルセロナにあるサグラダ・ファミリアに似ているが、高さは優にそれの数倍はある。有機的な曲線によって構成されたその巨大な建造物は、まるで神話に登場する神々が住まう宮殿のように見えた。これこそがシロアリ族の居城、パレスである。その威容を目にした瞬間、カニ人はあまりの荘厳さに呆然とすると共に、己の勝利と成功を確信した。頭の中でワーグナーの『ヴァルハラ城への神々の入城』が鳴り響く。これも記憶共有で知ったニンゲンの音楽だ。歌でも歌いたい気分だった。自分をクビにしたちょび髭カニ人を心の中で小馬鹿にする。やはり自分はあんなしみったれたバイトなんぞに収まる器ではなかったのだ。沢山のかわい子ちゃんたちにかしずかれ、ハーレムを築いていく事こそ本来の自分に相応しい生き方だったのだ。まあ、あのような雇われカニ人にそれを見抜けという方が酷な話かもしれない。自らの振る舞いを謝罪し深く反省するなら、近い将来シロアリ族の王として美しい妃と一緒に観戦に行った際には、チップくらいは恵んでやってもいいかもしれない──などと、そんな事を考えながら。
だがこの時の彼はまだ気付いていなかった。自分がとんでもない思い違いをしているという事に。
◆◆◆
「そ、そんな馬鹿なカニ……!」
パレスの最奥部、シロアリ族にとって最も大切なもの──幼児を育てるために地下に設けられた広大な育児フロアにて、カニ人は信じられないものを見たという顔で叫んだ。
「いない……『女王候補』がどこにもいないカニ……⁉︎」
慌てた様子で右往左往する。ここへ連れて来られてから約一ヶ月間というもの、衣食住の生活すべてをワーカーのシロアリ人虫たちに世話してもらっていたカニ人は、かつてのフォルムがみる影もないほどブクブクに太っていた。だがそんな自堕落な生活を送りながらも当初の目的はしっかり憶えており、暇さえあればワーカーや警備兵たちの目を盗んでコロニー内を隅々まで探索していた。今やこのパレスにカニ人の知らない場所はない。にも関わらず、にも関わらずである。ないのだ。何よりも大切に匿われ、保護されているはずの次期女王候補の部屋がどこにも見当たらなかったのである。
「これでは計画が完遂できないカニ! 女王候補を追い出して入れ替わる作戦が失敗してしまうカニ!」
ワァワァと叫びながらそこら中を駆け回る。彼は知らなかったのだ。確かに次代の女王候補を特別な部屋、特別な餌で育てる社会性昆虫は存在する。しかしそれは主にハチ類に見られる生態であり、シロアリとはやや異なる。もちろん全ての種がそうであるとは限らないが、シロアリ──特にヤマトシロアリなどの種──はコロニー創設時の女王が存命中に複数の二次女王を産む。ワーカーとも兵隊ともまた異なる分化を遂げた『ニンフ』と呼ばれる個体群がいて、通常は翅アリとなり分散して新たなコロニーを作るのだが、一部は翅を作らず腹部が肥大化し生殖可能な状態となるのだ。だからシロアリには次期女王候補のための特別な部屋はないし、そもそも特定の次期女王候補などというものも存在しない。カニ人の作戦は最初から破綻していたのである。しかしそれに気付いた時にはすでに遅かった。あまりに焦りすぎていて、彼の頭からは周囲に他人がいる可能性すらも吹っ飛んでいたのである。
「あれ、お前は確か育児室にいた奴じゃないか?」
「か、カニ……⁉︎」
いきなり声をかけられてカニ人は素っ頓狂な声を上げた。振り向くと部屋の中に警備兵が立っている。しまった。彼は自分が今赤ん坊のフリをしている事をすっかり忘れていた。こんな所を出歩いていては怪しまれるに決まっている。うっかり語尾も出てしまった。万事休すか。しかし続く警備兵の発言はカニ人も予想だにしないものだった。
「もうそんなに歩けるようになったのか。なら今日からお前にも仕事をしてもらうぞ。まずはワーカーとしてパレス内のありとあらゆる雑事をこなすんだ。才能があれば兵隊候補として軍事訓練を受けさせてやる」
「え、いや、カニ人は働くつもりはないカニよ……遠慮しておくカニ……兵隊なんてまっぴらごめんカニ……」
「何をふざけた事を言っている。そんなわけにいくか。さあ、一緒に来るんだ。ワーカーの教育係の所まで案内してやる…………ところで、何でそんな変な喋り方なんだ、お前?」
警備兵は逃げようとするカニ人の首根っこをむんずと掴み、そのまま強引に引きずっていった。体中に塗りたくられたベビーパウダーが、地面と擦れた部分に航跡のような白っぽい跡を残していく。
「お、おかしいカニ……こんなはずではなかったカニ……嫌カニィ! 誰か助けてくれカニィィィィ──!」
もがくカニ人。だが警備兵はお構いなしに彼のでっぷり太った体を引きずっていく。悲痛な叫びがパレス内にこだましたが、耳を傾けてくれる者は誰もいなかった。