真夏の約束
蝉しぐれが容赦なく降りつけてくる八月のある日の朝、庭に大きな池のある屋敷のなかで、一人の青年がその短い生涯を終えようとしていた。
「…………」
青年は長く肺を患っていた。
この時代ではまだ不治の病とされていたものであり、幼少の頃より次第に症状が重くなってきていたが、ついに寿命を奪い尽くすに至ったのであった。
屋敷に集まった親族たちは、彼の臨終までそばにいることを望んだ。
だが驚いたことに、本人がそれを断った。
最期の瞬間は一人で迎えたいと言い出したのだ。
にわかに場が騒然となった。
それはそうであろう。
病床の彼を看取るため、無理を言って仕事を休んできた者もいるのだ。
なかには気色ばみ、「俺たちの顔も見たくないというのか」と苦々しげに呟いた者もいたが、それも無理からぬ話であった。
険悪の気がみなぎる場を青年に代わっておさめたのは、彼の母親である。
どうか本人の望み通りにさせてやってくれないかと頼み込み、なんとか周囲を説き伏せた。
渋々ながら寝室をあとにする親族たちを見送りながら、床に横たわったままの青年は、目配せをして母に感謝の意を伝えた。
それを見た母は、何も言わなかった。
ただひとつ小さな頷きを返すと、自らもまた親族たちのあとに続いた。
障子の閉まる音がして、青年は一人になった。
布団の上から縁側のむこうに目を向ければ、だだっ広い庭がむせ返るような濃密な緑に染まっている。
大地を覆い尽くさんばかりのその旺盛な生命力と、無惨に痩せ細った己の手足とを比べると、もしやこれらの草花たちは自分の生命を吸って育ったのではないかと、彼にはすこし恨めしく思えてくるのであった。
「…………っ」
苦しげな咳きをしつつ、青年は庭に目を戻した。
しきりに視線をさまよわせている様子は、まるで何かを探しているかのようである。
果たしてそのとき、ふいに灌木の茂みがガサガサと音を立てて揺れた。
木の葉の隙間から現れた<何か>を見て、沼の水のように暗く澱んでいた青年の瞳が、にわかに輝きを取り戻す。
先ほどまで死の淵にあったとは思えぬほどの勢いで布団から起き上がると、縁側から部屋に上ってきた<何か>にむかって、こう叫んだ。
「──来てくれたか。待っていたぞ」
◆◆◆
うだるような暑さの中、これまたうんざりするほど長い石の階段を上った先に、朱塗りの立派な楼門があり、それを潜ると大きな池が見える。
きわめて透明度の高いその湧水池は、曲がりくねった山道を何時間も歩かなければたどり着けないほどの奥地にあり、地元民の他には絶えて人も訪れることのない、いわゆる秘境というやつであった。
だが今、その池のほとりで、ぜえぜえと肩をあえがせながら息を整えている者がある。
人間ではない。
一匹のカニ人であった。
「ハァ、ハァ…………やっと着いたカニ」
彼は人魚調査隊の一員であった。
宿敵である人魚族の姿をスケッチし、何らかの弱点を見つけてくるのがその任務である。
大抵は数人のチームで行動しているが、今は一人だ。
険しい山道の途中でトラブルに遭い、仲間とはぐれてしまったらしい。
「……まさかデスカワセミがこんな所にいるとは思わなかったカニ。ブラジルにしか生息していないはずなのに、どうしてこんな所に……? おかげで仲間たちとはぐれてしまったカニ。しょうがないから一人で人魚ちゃんを探すとするカニ」
彼が命じられたのは、とある淡水人魚族の調査だった。
どのような人魚かは不明だが、この池にいるという記憶の欠片が、記憶共有システムを通して他の個体からもたらされたのである。
姿も、種類も明確ではない。
「とにかくいるはずだから探してこい」という、そんな上からの曖昧な指示で彼はこんな山奥まで派遣されたのであった。
「おかしいカニね、たしかこの辺にいるはずカニが……」
キョロキョロと周囲を見回していると、ふいに池のふちから少し離れたところで、ブクブクと水面が泡立つのが目に入った。
水の下に何かがいる。
そう思った次の瞬間、ざばりと大きな音を立てて現れたのは、人間の女の上半身に巻貝の下半身を持つ人外──淡水人魚族の一種、タニシ人魚であった。
「ギャアァァァァ出たカニィィィィィ!?」
いきなり現れた人魚の姿に、カニ人は素っ頓狂な声をあげた。
彼の、種としての遺伝子に刻まれた本能的な恐怖心が、瞬時にこの場からの逃走せよとその両足に命じたが、人魚があまりにも急に現れたのにびっくりしたせいか、足がもつれて転んでしまった。
慌てて起き直り、尻餅をついたまま後ずさりするその姿は、はた目にもわかるほどにぶるぶると震えていた。
「な、なな、ななななな…………!」
彼がここまで怯えるのも無理はない。
なぜなら、目の前にいるのは普通の人魚ではないからだ。
口にするのも憚られるほど恐ろしいとされるその名。
カニ人の脳裏に去来する様々なイメージ──彼らの記憶共有システムに蓄積された膨大な記憶情報の断片のすべてが、「目の前の人魚は危険である、一刻も早く逃げろ」と警報を鳴らしていた。
タニシ人魚は、以前からカニ人たちのあいだで話題になっている恐ろしい人魚であった。
他の人魚とは違い、彼女は自らスケッチを描いてほしいとカニ人たちに依頼してくるのだが、要求してくるハードルが異常に高いのである。
下手に描けば何度でも描き直しをさせられるのだ。
「何度でも」というのは、もちろん比喩表現ではない。
それこそ何回でも、何十回でも、何百回でも描かされる。
タニシ人魚の満足いく出来映えになるまで、決して終わりがくることはないのだ。
しかもタニシ人魚は一種独特な価値基準を持っており、他の人魚やニンゲンであれば手放しで称賛するであろうクオリティの絵であっても、気に入らないと言ってあっさりとボツにしてしまう。
そこからまた地獄の描き直しが始まるのだ。
そのせいで疲労困憊し、二度とペンを握ることができなくなったカニ人は一人や二人ではない。
しかも彼女は描いている最中にお腹が空くと、あろうことか目の前で必死にスケッチをしているカニ人をむしゃむしゃと食べてしまうのである。
そしてまた次に表れた個体にスケッチを依頼するのだ。
これでは恐れられるのも当然である。
「あ、やっぱりカニ人じゃん! 下から赤いのが見えてたから、そうじゃないかと思ったんだ。ねぇ、あなたも絵が上手なんでしょ? わたしの絵を描いてよ」
と、濡れた髪から水を滴らせながらタニシ人魚は言った。
対するカニ人は、この場をどう乗り切るか必死に考えていた。
何か言わなければ。
この恐ろしい人魚の要求を断り、一刻も早くこの場を立ち去らなければならない。
そしてはぐれた仲間たちと合流し、彼らの故郷であるマリアナ海溝へと速やかに帰還するのだ。
人魚調査隊は、人魚のスケッチをするのが本来の役割である。
その目的は人魚の弱点を見つけること。
隊員に選ばれた者は、たとえ自らの身を犠牲にしてでも人魚族の情報を持ち帰らなければならない。
そうやって集められた貴重な情報は、彼ら一族の悲願である「人類滅亡」を達成するための重要なカギとなるからだ。
そのため、人魚を目の前にしてスケッチもせずに逃亡するなどということは、本来は決して許されることではない。
そんなことをすれば敵前逃亡の汚名を着せられ、同胞たちから散々に馬鹿にされた後で監獄に放り込まれるか、より危険な任務へと強制的に投入されてしまう羽目になるだろう。
だが調査対象がタニシ人魚の場合、そのルールは必ずしも当てはまらなかった。
逃亡は事実上黙認されていたのである。
なぜなら、スケッチをしようがしまいが、どちらにせよその情報は故郷に届くことはないからだ。
過労で倒れるか、食われて命を落とすか、二つに一つしかないのである。
記憶共有によって断片的な情報は伝わるとはいえ、やはりスケッチと比べると情報の精度は劣ると言わざるを得ない。
それならば、せめて五感でとらえた情報だけでも持ち帰ってくれた方がまだマシである…………これがタニシ人魚との遭遇時に限り、逃亡が黙認されている理由なのである。
脳内で考えに考えを巡らせ、ようやくこの場を切り抜けるための小粋なトークを思いついたカニ人は、すぐさまそれを実行に移そうとタニシ人魚に話しかけた。
しかし、
「あ、あの……」
「ん? あ、もしかしてわたしの名前? こよりっていうの、よろしくね。そういえば、あんた達には個人の名前が無いんだっけ。不思議な感じだね。あ、それよりもポーズはこんな感じにするから、その辺から描いてくれる?」
こよりと名乗ったタニシ人魚は、カニ人の話をまったく聞いていなかった。
会話の糸口を完全に見失い、話しかけようとした姿勢のまま彼は途方に暮れた。
(こ、これは不味いカニ。逃げる隙がないカニ。とりあえずスケッチするフリをして時間を稼ぐカニ)
仕方なくカニ人はスケッチを開始することにした。
だが、描き始めようとした瞬間、スケッチブックに触れるか触れないかの位置でペンが止まってしまった。
どんな風に描けばいいのか、どう描けば正解なのかがわからなかったのだ。
こよりに直接遭遇したことによって、これまで断片的にしか伝わっていなかった他個体の記憶情報が相互に結びつき、より具体的なイメージとして彼の脳内に表れた。
それによれば、このタニシ人魚は過去に犠牲となったカニ人たちによって、ありとあらゆるスタイルで描き尽くされていたのである。
それはまさに古今東西のあらゆる技法、スタイル、画風の見本市であると言ってよく、そこに彼自身が付け加えられるものなど何もないと思えるほどであった。
正直言って、これ以上何をどうすればいいのかわからない。
とはいえ、何も描かずにいるわけにもいかない。
それは確実に目の前の人魚の不興を買うだろう。
あまり時間をかけるのも危険だった。
お腹を空かせた人魚に食われてしまう可能性がある。
全身にびっしょりと脂汗をにじませながら、とにかくペンを紙の上に走らせてみた。
「カニ……?」
描き始めてしばらくしたカニ人に、奇妙な感覚が訪れた。
破れかぶれの気持ちで始めてみたが、意外に筆が進むのである。
まるで描き慣れた対象をスケッチしているかのようなスムーズさに、彼は困惑した。
(おかしいカニ。どうしてこんなに調子がいいカニか。まるでどう描けばいいのか最初から分かっていたみたいカニ。不思議カニ)
こよりは池のふちにある岩場に身を預け、黙ってポーズをとっている。
けだるげなその横顔は、木漏れ日の下にとても美しく見えた。
その表情を丹念にスケッチしていると、わけもなく懐かしい感じがする。
決してそんなことはないはずなのに、かつてどこかで会ったような気がするのだ。
遠い昔、彼がまだ生まれるずっと前に、ここで。
この場所で。
カニ人ははっと気付いた。
これは気のせいなどではない。
これは、この奇妙な感覚の原因は、記憶だ。
他個体の記憶が、共有システムを通して自分の感情に影響を与えているのだ。
だがそれを悟ると同時に、新たな疑念も湧いてきた。
他個体の記憶なら、それは恐怖の記憶であるべきではないのか。
こよりに遭遇した個体の記憶なら、それはほぼ例外なく彼女の餌食になるか、過労で命を落とすかのどちらかであるはず。
なのに、なぜ過去を懐かしむような気持ちになっているのか。
なぜ目頭が熱くなっているのか。
(なに、カニ……これは……? この感覚は……)
すでに、こよりに対する恐怖は微塵もなくなっていた。
それどころかむしろ、この時間がもっと続けばいいのにとすら思う。
そんな己に気付き、彼は内心愕然とした。
一体全体これはどうしたことか。
ペンはまるで自らの意志を持っているかのように、紙の上を縦横無尽に走っていく。
無意味な線が輪郭となり、徐々に細部が描かれていく技法は、これまでの彼のスタイルとはまるで違う。
より強く、荒々しく、それでいて海原のような深さと繊細さを併せ持つ、独特の画風。
得体のしれぬ高揚感と使命感に衝き動かされるようにして、カニ人は絵を描き続けた。
自分はこれを描くために生まれてきたのかもしれない、と思いながら──。
「できたカニ」
三時間ほどで絵は完成した。
描き上げた途端、先ほどまでの高揚感は波が引くように薄れていった。
おそるおそる差し出されたスケッチブックを、こよりは嬉しそうな顔をして受け取る。
だがそこに描かれているものを目にした瞬間、彼女の表情が固まった。
艶のある小さな唇を驚いたように半開きにし、透き通るような藤色の瞳をいっぱいに見開いている。
やがてその身体が小刻みに震え出したのを見て、カニ人は色を失った。
(ま、まずいカニ、怒ってるカニ……! めっちゃプルプルしてるカニ)
こっそりスケッチブックの陰から様子を伺うと、驚いたことにこよりは泣いていた。
化粧が落ちるのも構わず、両眼からポロポロと大粒の涙をこぼしている。
まさか泣くほど出来が悪かったとは思わなかった。
それを見たカニ人は、いよいよ世界の終わりが来たような顔をした。
(だめカニ、もうおしまいカニ)
かくなる上は、捕まるのを覚悟で逃げるしかない。
すばやく周囲を確認し、脱兎のごとく駆け出そうとしたその瞬間、背後から呼び止める声が聞こえた。
「待って! お願いだから逃げないで!」
ぎょっとして身体が硬直する。
完全に出鼻を挫かれてしまった。
逃げるな、と言われてしまってはそうするより他なく、カニ人は渋々その場に留まり、こよりが泣き止むのを待った。
「……ごめんね、急に泣き出しちゃって。もう大丈夫だから」
鼻をすすり、目を真っ赤にしながら言ったこよりに、カニ人は質問した。
「どうして泣いてたカニ? カニ人の絵はそんなに下手だったカニか?」
「……ううん、ちがうの。あなたの絵が、昔の友だちの描いたものによく似ていたの。それで思わず懐かしくなっちゃって」
「友だち? 人魚ちゃんカニ?」
「じゃなくて、人間。もう随分前のことだけどね。若いけど画家だったの。よくそこに座って描いてたんだ」
そう言って、懐かしむように微笑んだ。
「初めて会った時は、びっくりしすぎて絵の具をひっくり返してたけどね。その後すぐにモデルになってくれって頼まれて。お父さんやお母さんからはあんまり人間と話しちゃいけないって言われてたんだけど……どんな風に描いてもらえるのか興味あったし。それに、顔が好みのタイプだったから、彼。だからその場でOKしたの」
モデルになっている間、こよりはその青年と色々な話をした。
彼は幼い頃から肺の調子が悪いこと。
静養のため近くにある病院に入っていること。
とはいえ症状はそこまで酷いものではなく、調子のいいときは絵を描くために外出すること。
故郷は海辺の町にあり、代々商家の血筋である実家では、病弱で芸術家肌の彼は非常に浮いた存在であるということ。
青年からこよりに問いかけることも度々あった。
人魚族という存在は、彼の好奇心を刺激したらしい。
いまだ人類の理解の及ばぬ不思議な生き物たちが、人知れず大きな川や湖の下に暮らしている──そんな荒唐無稽な話、実際に目の前にいるこよりと出会っていなければ、おそらく彼も一笑に付していたであろう。
こより自身もあまり他の人魚と交流がある方ではなかったが、それでも自分の知っていることは包み隠さず青年に伝えた。
淡水人魚族の本拠地は巨大な地底湖にあること。
そこには数多くの人魚たちが暮らしていること。
海にも人魚がいること。
恐ろしい竜族のこと。
それから二人は何度も逢瀬を重ねた。
こよりはモデルを続け、青年はそんな彼女を余すところなく己の絵で表現しようとした。
かなり早い段階で、どちらもお互いを好ましく思っていることに気付いていた。
それは友情ではなく、恋慕に近い感情であった。
いつしかこよりは青年が尋ねてくるのを心待ちにするようになった。
それまでは何とも思っていなかったのに、一人きりの時間を寂しいと感じるようになった。
青年が喀血したのは、そんなある日のことだった。
軽症というのは、こよりに会いたいがためについた嘘だった。
本当はすでに外出も許されないほどに彼の病状は悪化していたのだ。
青年の身を案じ、ここへ来るのはもうやめるべきだと諭すこよりに対して、彼は強く首を横に振った。
「大丈夫、心配しないで。こんなの全然平気さ。それより、もう少しで描き上げられるんだ。途中でやめるわけにはいかないよ」
だが、容体はみるみるうちに悪化していった。
命を絞り出しているような激しい咳が止まらず、口元を抑えた手のひらには、たびたび鮮血が飛び散った。
キャンバスを一心不乱に見つめる目は日を経つごとに落ち窪み、ギラギラと狂的な光を放つようになった。
もう限界だ。
こよりはそう思った。
どのように諭しても青年が描くのをやめようとしないので、逆に彼女がモデルになるのをやめることにした。
彼の前から姿を消したのである。
いつものように池のほとりにやってきた青年は、すぐに彼の愛する人魚の姿が見えないことに気付いた。
困惑は焦燥へ、こよりを呼ぶ声はやがて悲痛な叫びへと変わったが、いつまで経っても人魚は姿を見せなかった。
最初は本気で彼女の身を案じていた青年も、やがてその行動の意図を悟った。
がっくりと膝をつき、地面を打ち叩いて嘆く様子に、こよりは思わず涙を流さずにはいられなかった。
それからも青年は毎日のようにこよりを探しに来たが、やがて姿を現さなくなった。
諦めがついたのか、それとも病に倒れてしまったのか、それはわからない。
どうか前者であってほしいと願った。
彼の最後の言葉を、今でもこよりは覚えている。
「不甲斐ない男ですまない。だが待っていてくれ。いつかきっと僕は戻ってくる。約束する。病気を治して──いや、たとえ死んで魂だけになったとしても、必ずここに戻ってきて、君の絵を描き上げる」
それから長い歳月が経った。
記憶の片隅に埋もれていた青年のことを思い出したのは、彼女が初めてカニ人に出会った時だ。
不躾な赤い生物からスケッチのモデルになって欲しいと言われた瞬間、あの夏の日の思い出がいっぺんに蘇ってきたのだ。
それから彼女は、あの青年によく似た絵を描くカニ人を探していた。
彼の魂がカニ人になって戻ってくるかもしれないと思っていたからである。
それが他愛もない願望であることは百も承知していたが、それでも願わずにはいられなかった。
戻ってきてほしいと。
また二人の時間をすごしたいと。
そして、彼女はついに出会うことになった。
本当に青年そっくりの絵を描くカニ人に。
荒々しくも繊細な筆遣いも、全体にまとう雰囲気も、何もかも細部まで似通っていた。
彼は戻ってきてくれたのだ。
長い時間をかけて自分のもとに。
そう思うと自然と涙があふれ出てきた。
「なるほど、タニシ人魚ちゃんにも色々あったカニね」
「…………こより」
「もとい、こよりちゃんにも色々あったカニね」
話を聞き終えたカニ人は腕組みをして唸っていた。
話している最中にまたしても涙がこみあげてきたのか、こよりはカニ人の差し出したハンカチで目元をぬぐっていた。
「……ごめんね、いきなりこんな話して。あなたには訳のわからないことだらけだと思うけど」
「いやいや、そんなことはないカニよ。とても感動するお話だったカニ」
「ほんと?」
「ほんとカニ。その絵とハンカチは差し上げるから、好きなだけ鑑賞してくれたらいいカニ。それじゃあカニ人はこの辺でお暇させてもらうとするカニ──」
そう言ってカニ人がそそくさと逃げ出そうとすると、すかさずこよりが声をかけてきた。
「ねぇ、ちょっと待って」
「か、カニ……?」
逃げようとした体勢のまま、思わず固まってしまったカニ人にこよりは言う。
「せっかく知り合いになれたのに、もう帰っちゃうの? もっとお話ししようよ」
「いや、気持ちはありがたいカニが、カニ人には大事な使命があるのだカニ。だから……」
「そんなこと言わないで、ね? あなた達のこと、もっと知りたいし。いいでしょ?」
いつのまにかするりと伸びてきた腹足に巻きつかれ、身動きが取れなくなってしまうカニ人。
ジタバタともがいてみるが、人魚族のパワーには抗うべくもなかった。
どうやらまだしばらくは解放されそうにないと思い、またもカニ人は全身から脂汗を流しはじめたのであった──。
◆◆◆
「後生だ。この絵をあの子に──こよりという名のタニシ人魚に見せてやってくれ」
うだるような夏の日、死の床にあってなお、目だけを爛々と輝かせながら青年は言った。
カニ人はこよりに秘密にしていることがあった。
実は、彼はその画家のことを知っていたのだ。
直接会ったわけではない。
面識があるのは他の個体──記憶共有で繋がっている遥か過去のカニ人だ。
いま現在こよりの目の前にいるカニ人は、すべてを「思い出して」いた。
愛する人魚の絵を描くことに己の魂を捧げた画家は、最後は生まれ故郷の海辺の町に帰った。
無論、自ら望んでではない。
医師や親族たちの勧めによって、半ば強制的に退院を余儀なくされたのだ。
青年はこよりに会うのを何よりも楽しみにしていた。
彼女と一緒に過ごしている時だけは、病の苦しみを忘れることができたからだ。
絵は、二人を結びつける大切なよすがだった。
絵を描いている時だけは……こよりと二人でいるときだけは、彼は自分が生きていると感じることができた。
だからこそこよりが姿を消したときは、身を引き裂かれんばかりの苦痛を味わった。
それが彼女なりの思いやりであることは理解していた。
だからなおのこと辛いのだ。
病院に戻ったが症状は悪くなる一方で、もはや手の施しようがないと判断された彼は、生まれ故郷に戻された。
最後にひと目だけでもこよりに会いたいと思い、病院を抜け出したが、結局会うことはできなかった。
深い絶望と共に故郷に戻った彼は、そこで海に身を投げようとした。
カニ人に出会ったのはそんな時だ。
そして、彼らと彼ら一族の記憶共有システムの存在を知ったのだ。
「見せてくれって言われても、まだ完成してない絵をどうやって見せたらいいカニ?」
畳の上に胡坐をかいていたカニ人が首をかしげた。
そう、彼の言う通り、この絵はまだ未完成なのだ。
青年は苦しそうに顔をゆがめ、絞り出すように言葉を発した。
「君が描くんだ」
「カニ?」
「いや、正確には君だけじゃない。君の一族に描き上げてほしいんだ。僕の絵を、僕の代わりに」
「いきなり何を言い出すかと思えば、暑さで頭が茹だったカニ?」
遠慮のない突っ込みに、青年は思わず笑みを浮かべた。
が、それはすぐに激しい咳によってかき消される。
布団の上に赤い血がまだら模様を描いた。
時が近づいているのだ。
「頼む。もうこれしか方法がないんだ。僕の絵をよく見て、すべて覚えておいてくれ。君たちの記憶は繋がっているんだろう? そこに僕の絵を浮かべ、未来へと残してほしい。繋いでくれ。僕と似たセンスを持つ個体が生まれるまで。君たちの種族は芸術的な能力が非常に高い。なかには僕と同じ才を持つ者もいるはずだ。そこに賭けたい。いつかこの絵を描き上げられる子が生まれてきたら、どうか彼女に見せてやってほしい。伝えてくれないか。これが僕のすべてだと。君にあげられるすべてだと。そして──」
そう言い残して、彼は息を引き取った。
それから二百年近くの時が流れ、彼の想いと技術は様々なカニ人によって継承され、たしかに今に繋がっていた。
どうしてカニ人が人魚族に見つかる危険をおかしてまで、ニンゲンに協力しようと思ったのかはわからない。
個人では到底叶えられない願望を、次世代の、しかも他の種族に託してまで繋いでいこうとするその狂気じみた執念に、何か感じ入るところがあったのかもしれない。
あるいはそれがニンゲンの強さであり、それこそが人類の最も優れた能力であると、青年の精神の在り方に畏敬の念を抱いたのかもしれない。
いずれにせよ、青年の願いは見事に果たされたのだ。
いつか、カニ人はこよりにすべてを話そうと思っていた。
あの病弱な青年が、どれほど彼女のことを想い、生き、そして死んでいったのかを。
故郷に帰った彼が何をしようとし、どんな風にカニ人と出会い、何を話したのかを。
そして、その時が来たら、きちんと伝えようと思うのだ。
彼はちゃんと約束を守ったのだということを。
「いつかこの絵を描き上げられる子が生まれてきたら、どうか彼女に見せてやってほしい。伝えてくれないか。これが僕のすべてだと。君にあげられるすべてだと。そして──心から愛していたと。いつかまた、あの池のほとりで会えることを願っている、と」
カニ人もまた、青年との約束を守らなければならない。
──男と男の約束を、守らなければならないのだ。
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