『風のかけら』 06 彼奴は暗闇に棲んでいる - He, Who Lives in The Night
サンフランシスコの冬でも、やはりそれなりに冷え込む。
「The coldest winter I ever spent was the summer in San Francisco」
「私の人生におけるもっとも寒い冬は、サンフランシスコの夏だ」
文豪 Mark Twain の名文句を知ったのはずっと後のこと。太陽の熱い夏でも霧が街にやってくると不意打ちのように冷え込む。砂漠性気候なのだから夜は冷え込む。冬ならなおさらだ。
〝太陽サンサンカリフォルニア〟を想い描いて流れてきたアジア人青年は、ずっとなにかに踊らされつづけていたことに気づき、とにかく機嫌が悪かった。
ミッション・エリアと呼ばれる区画がある。サンフランの街の南西部、どのブロックにもグラマーな体に赤いフレアスカートの、おそらくマリアという名前のラテン女の踊る看板を掲げた店が並んでいる。
見慣れぬ菓子や飲み物
肉と煮豆に赤や緑のソースをかけて薄皮パンケーキのようなものでくるんだ食い物
切り開かれ皮を剥かれたカエルの死骸のように見えてしまうニワトリ
リアルな形の巨大な舌
得体のしれないものをゴロゴロとニンニク臭をまき散らしそつつ店頭で焼く不衛生な食堂
アジア人の所属しない場所だ。メキシコ人低所得者が住民の大半を占めた、ようは治安の悪い区画である。
大方の経済的理由と職場への交通の便、霧がやってこない希有な地理的条件、そして少しの冒険心とから、その中心部にある薄汚れた一軒家の二階に住まわっていた。
若い冒険心が異国の刺激に弄ばれて喜んでいたのは最初の二週間ほどか。
異臭を放ちつつてらてら光るアスファルト
遅くまでやかましいはす向かいのパブ
階下に住む巨大な体躯の国籍不明怪人
がなりたてるスペイン語
使い方を知らないと困ったことになる闇チケット売り
叫ばないと止まらないバス
たまに見せられる重犯罪の濡れた余韻
目の前で頻繁に起こる軽犯罪
細身の黒人青年がサイフをひったくった。足の不自由な老白人のサイフだ。窃盗犯は走るまでもないとからかうように早足で逃げまわる。
「ワシのサイフを! あの男がワシのサイフを!」
よぼよぼと追いかける老白人を見ているだけの群衆。
目の前を黒人のニヤリ目が通りすぎるのを見ているだけの俺。
髭を生やし始めたのもこの頃だ。心は日に日に荒んでいった。
仕事の帰りはいつも遅く、人気のまばらな暗い夜道を歩く俺はとにかく機嫌が悪かった。なにかが身に降りかかればためらわず殴りかかり、間髪を入れず蹴り上げて、次の瞬間には高笑いしながら全速力で逃げていく男の姿をいつも頭に想い描いていた。
その夜も‥‥‥風に雪がちらつかないのが不思議なほど寒く、俺はやはり苦虫を噛み潰したような仁王面だか仁王に踏みしだかれた邪鬼面だかを着けて歩いていたろうと思う。前後の闇に気を配りながらしかめっ面で歩いていたろうと思う。
暗い夜を歩きながらも、ふと思いかけず、暖かい記憶が頭に浮かんだ。遠く、白く、まぶしい想い出。そして一瞬だけそれに身を委ねた。
照りつける太陽
果てしなくつづく砂浜
屈託なく笑う白い少女
風の音だ
汗の匂いが芳しい
終わらないと感じた初めての時間
眼前の暗闇に浮かぶ少女の幻影に応えるかのように、不覚にもかすかな笑みを浮かべたその瞬間だった。
「Yes!」、声を聞いた。
驚いて立ち止まり、周囲を見回すと、どうやらとっくに閉店した商店の、少し引っ込んだ入口の暗闇に気配がある。
じっと見つめても姿形は定まらない。武器にもなると思い路を歩くときはいつも手に持っているジッポの鉄塊を握りしめ、一歩だけ近づいて目をこらす。
――と、暗闇にふたつ、遠くの街灯を映しこんでいるらしい、濡れた玉?
Yes! That's it!
その声に、ふたつの玉の中央から少し下がったところで、白い歯が腹話術人形のようにパタパタと開いてシンクロした。
彼奴は暗闇に棲んでいる。
泥色毛布にくるまったひとりの黒人ストリートピープルは、この四六時中神経を逆なでする路上にいて、深夜遠くから近づいてくる機嫌の悪いアジア青年の面上に、一瞬だけ現われた小さなぬくもりを見逃さず、叫んだのだ。
「それだよ! そうでなくちゃ!」
心から嬉しそうに。
このアジア青年は、見られていたことが無性に腹立たしく
このアジア青年は、見られていたことが無性にありがたかった
Love & Peace,
MAZKIYO
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