なぜ私は書くのか。
この記事は、藤原華さんの企画「なぜ、私は書くのか」に参加するものです。
※一部、自分の過去記事からリライトしています。気づいた方は何も言わずエコな私をそっと心で抱きしめてください。
私は35歳の男で夫で2児の父でしがない会社員で、「よく親戚にいそうな顔だよね」と言われたことがある。学年ビリから1年で偏差値を40上げて慶応大学に入ったこともなければ余命100日でもないし君の膵臓を食べたこともない。つまるところごく平凡に生きてきた人間であって、強く発信したいなにかがあるようなタイプではない。
なのでnoteで日常のエッセイなんかの文章をあーでもないこーでもないと考えていると、たまに「なんで私はこんな面倒くさいことをやってるんだろうな」と思うことがある。
私は決してnote界で天下を取ろうとかお金を稼ごうとか考えているわけではない。別に書かなくても生きていけるしなあと思っている。それなのによく私は家で残業をしているかのごとくパソコンに向かってうんうんと唸っている。
だから私はせめて書くことが嫌いにならないように、毎日投稿勢からの圧にも負けずあんまり書く頻度を決めないようにしているのだ。ルールを決めちゃうとむしろ続かないからな。えっへん。いやまてまてそうじゃない。そもそもなんで書いてるのかって話だ。
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唐突に昔の話をするが、私は子供の頃から自分だけ周りと足並みがそろわないなと思っていた。
いつも記事を読んでくださる方はなんとなく想像がつくと思うが、私は空想癖がある。よくぼーっとしていていきなり変なことを言い出すし、昔付き合っていた彼女から「あなたは何を考えているのか全然わからない」と言われたこともある。
私はよく過去のエピソードをくだらないことのように書いたりする。でも笑いながらも、その時はその時でけっこう真剣だったように思うのだ。
例えば私は「君が代」の歌のリズムが嫌だった。ねっとりしていて陰気になる。こけのむすまで、とかなんか気分はグレー。そういうことに疑問も持たずに歌うやつらが嫌だった。算数の問題で友達なのになんでC君だけ5分後に家を出るの、みたいなのとか思わないのが嫌だった。
こういう人とのズレが積もり積もって、それは説明できない嫌な感情で、その部分を共有できる人はなかなか現れなかった。一番仲の良かった友人でも話すことができない部分が多かったと思う。
それから世の中にmixiやtwitterがでてきて、その感覚をSNSに書くようになって、ある時知らない誰かに共感してもらったときにすごく感動したのを覚えている。なんだか自分の嫌な部分がすっと昇華されていくような気がしたのだった。
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今でこそ、私は自分と人との違いをおおまか理解するようになったし、違う部分こそ面白いと学ぶようになった。SNSは共感を得るためにガリガリ書くというより、私の中でやわらかい場みたいなものに形を変えた。
例えるなら、見知らぬ人との電話のようなものかもしれない。
ツーツー、聞こえますか。
私はこんなやつなんです。
あなたと仲良くなりたい。
それはいきなりかける間違い電話のようなもので、それでも相手が電話を切らずに話す確率はどれほどのものなんだろう。
自分の感性に近い人とか、自分のことを本当に理解してくれる人っておそらく特別な磁力が働いているに違いなくて、そういう人と仲良くなれることはきっと人生において一番心のコーフクってやつに近いのだと思う。でも素敵な人は自分が魅力的にならなければ来ないもので「ほしいほしい」だけでは来ぬ。
ハローかグッバイか、ハローもそれなりにでてきたけどいつも少しだけ緊張する。でもその緊張はそんなに悪くない。血圧が上がるのが気持ちいい。
あれから私は夫になり、父にまでなったが相変わらず個体としてどう生きていくのかとか全ては不安である。自分の欠陥とはずっと付き合っていかなければならない。でもお互いに現実のおかしみを笑い合う仲間がいることで、まあ騙し騙しやっていけるなと思ったのだった。
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私がnoteのアカウントを作ったのは2022年のお正月。妻に勧められて始めたのがきっかけだった。
元々妻とは大学時代からの付き合いなのだが、大学生の頃に私がmixiで日記を書いていたのを妻が読んでいた。mixiはたしか社会人になって辞め、それからはもうどこにも書いていなかったのだが、新年に今年はなんか新しいこと始めたいな〜という話をした時に妻が「また文章書いたらいいんじゃない?」と言ったのだった。
そういうことで私のnote記事は全部妻も読んでいる。ある意味妻に面白がってもらうために書いている、といってもいいかもしれない。それが目的の全部でもないが、いつかこどもたちが巣立った後のわが家で「こんなこともあったねえ」と妻と一緒に記事を見返すのもいいかもしれない。