商業クリエイターを諦めることにします

2年務めた会社を退職し、シナリオライターを辞めることにした。
理由は単純で、私がもう、物語というものを一文字も書けなくなったからである。

会社に勤めている間、それはもう本当にいろいろあったが、それについて今更事細かに話すのはやめておこう。
うっかり変なことを書いて会社に迷惑がかかっては申し訳ないし、実際私自身、職場については不満に思っていたこともほとんどないからだ。
うまくいったこともいかなかったこともあったが、私も周囲の人もその時々で全力を尽くしていたし、私と一緒に働いていた会社の人たちのことはとても尊敬している。
労働環境は最高でみんないい人で、会社はとても居心地がよかった。ずっとそこにいられればよかったのになと未だに思う。
ただ私がそこでやっていける人間ではなかったという事実が、本当に残念だ。

私の筆が完全に止まったのは、いろいろあったそのすべてが少しずつ影響していたのかもしれないし、どれも全く関係ないのかもしれない。
というか理論立てて考えるのも疲れてしまったので、しばらくは深く考えないことにする。

そもそも幼少の頃から、私は「どうしてそんなことをしたの」とか、
殊更「どうしてそう思ったの」という質問が大嫌いだ。
大抵の場合、私は答えられなかったから。

いや、だって、逆に「どうして」だ?
好きなものは好きだし、嫌なことは嫌。それ以外に何かあるのか?
既に私の胸の内に存在してしまっている感情に、今更生まれた理由なんて求めてどうする?

まあ、訊いてくるからには、訊き手も含めて私以外の人は自分の感情や行動についてすべて論理的に説明できて、当然私にもそれができると思っているから訊くはずだ。
できない私がおかしくて、愚かなだけなんだろう。
それはなんだか腹がたった。「どんくさくて変な子」だった私だが、勉強に関してだけは優等生だったためか無駄にプライドが高い。

悔しかったので、私は次にその質問をされた時、正しく答えられるようにとトレーニングを始めた。
「自分がどうしてこう思ったか、どういう動機でこんな行動をするのか」常に理由を用意する癖をつけた。
まっとうな人間になりたくて、私はせっせとがんばったが、これがどうにも釈然としない。
がんばればがんばるほど、「どうして私がお前らにわかるようにいちいち説明してやらなきゃならないんだ?」という不満が絶えず湧いてくるのだ。
どんなに自分を押し殺しても、その不満は絶対に私の中で1%残る。そして何かのタイミングで爆発を起こし、苦労して築き上げてきた人間関係を全部薙ぎ払っていった。

学生時代にそんなことを何回か繰り返した結果、私は自分の性質を受け入れることにした。
あるものはあるし、ないものはない。やりたいことはやりたいし、無理なものは無理。それでいいじゃないか。
むしろ説明できない、論理的でない感情や思考回路に対し、本人以外が無理矢理理屈に当てはめるのは、人間の自然な在り方に反して失礼なことだ、と。

だから自分の心も他人の心もあるがままに見て、いいとか悪いとか、正しいとか正しくないとかの判断の前に、とりあえず「そういうものなんだなあ」と受け止める。
不適切なあなたを私は責めない。だから不適切な私を誰も責めないでくれ。
そして私は、私のそういう他人との付き合い方が、割と好きだった。
欠点にもなりうるだろうが、一種の美点だとすら思っていた。

だが当然その思想は、会社というチームでの創作で、「誰から見ても明快なストーリープロットを組む」なら邪魔にしかならない。

なんというか、私は私が書くもの、つまり私の中身に「納得感」とか「説得力」とか「整合性」を求められることに、必要以上に疲れるたちなんだと思う。
実際にできるかどうかよりむしろ、「常に適切であれ」「そう書かなくちゃならないんだ」という内なる圧に。

つい数行前偉そうに語った人生観だって、所詮は私が「私はおかしくない、生きていてもいいんだ」と信じたいがために生み出した屁理屈に過ぎない。
すべてのことを論理的に説明することができるならば、私がそんなふうに明快に生きられたならば、おそらくそれが一番いい。だってみんなそうしているし、この社会はそういう前提で成り立っているんだから。
私は生きていること自体が後ろめたいから、「どうしてですか」と訊かれると「ごめんなさい」としか返せないのだ。
そんな話はしていない? その通りだ。だが、私にとってはそういうことだった。
ありていに言えば、作品と自分を切り離すことができないんだと思う。

参考にするため、勉強するため、映画を沢山見た。
この世にごまんとある「よくできた」、「ちゃんとした」作品を次から次へ頭に入れる作業。するとだんだん、作品から責められている気分になってくる。
大団円を迎えた直後、登場人物全員が無表情でこちらを振り返って、「どうしてお前はそんなに筋が通っていないんだ」と私を冷ややかに睨んでいる気がした。
こんな状態で物語が楽しめるものか。
でも商業クリエイターにとって、これはよくあることなんだそうだ。

わかっちゃいる。こんなこと、他の人は苦にも思わないんだろう?
そうでなければ、これは乗り越えなくちゃならない必然の困難なんだろう?
こんなもの、諸先輩方も同じように味わってきた、ありふれた苦しみなんだろう?
他の人がこれらを乗り越えた先でうまくやっているんだから、私にもできるはずなんだろう?
すごくつまらないけど。全く楽しくないけど。誰のことも何のことも、ちっとも好きになれないけど。
でも、これが正しいんだろう?
そういうふうに仕事に臨むべきなんだろう?
だって私たちはプロとしてここに呼ばれているんだから。情熱なんかなくたって、技術さえ培えば!

そう思ってがんばったが、違うらしい。

考えるまでもなく、苦しみの最中にいる私によしとしなかったのは、周囲の人の優しさでもあったのだろう。
わかっちゃいる、わかっちゃいるが心は納得しない。

違うのか。そうか。おかしいなあ。
私の魂が納得するものでは認めてもらえないそうだから、こんなに苦労して魂を殺したのに。
それでもまだ違うという。何なら前のほうがよかったとまでいう。
そりゃ私だってそう思うさ!
ああ、なのにどうしてくれる。知は不可逆なんだぞ。
もう昔のように書くのがただ楽しくて、作りたいものが次々浮かんできていた頃には二度と戻れないのに!
ここまでやってダメなら、何のために私の魂は死んだんだ!

……もちろんそんな八つ当たりはできない。
自分の迷いを、どうしてこんなに苦しいのかを、きちんと人にわかるように伝えようと試行錯誤したが、無理だった。
それはそうだ。私は自分の感情を論理では絶対に説明できないからこそ、登場人物の人生に同じものを託して物語世界を作っていたのだから。

自己救済を目的にものづくりをする人は多いだろう。
ものづくりでお金をもらうということは、他じゃどうにもならなかったから仕方なくひとりでやっている魂より大事な自己救済に対して、いいとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、商品価値があるとかないとか、そんなことを人に言われたり、人に言ったりしなくちゃならないということだ。
他の人だって辛いに決まっている。魂を削って血反吐を吐いて、それでもまだ首を吊っていない人だけが、商業クリエイターを名乗って生きる資格を持つのだ。

わかっている。重々わかっている。
嘆いてもどうにもならないとわかっていたから嘆かず、黙ってがんばった。ずっと憧れだった会社にとって必要な、まっとうな人になろうと思って。
論理的だろう? 褒められて然るべきだろう?

そうしたらある日突然、まったく手が動かなくなった。

流石にもう本当に駄目だと思って、やっとまともに周囲の人に弱音を吐いた。
みんな私の話を熱心に聞いてくれ、少し休んだほうがいいと勧めてくれたが、返ってくる答えはどの人もたいへん似通っていた。
私が既に散々悩んだ結果どうにもならないと結論付けた現状と今の苦しみの必要性、その再確認。
最後に、みんな通る道だからがんばりましょうと。

……「がんばりましょう」?

当然、相手に悪気があったわけではないのは理解している。
「みんな通る道だから」というのも、「だから大丈夫だよ」という励ましの意味合いから出た言葉なんだろう。
わかっている。重々わかっているし、楽しくもない話に付き合わせてしまった申し訳なさと感謝の気持ちもある。
だがそれはそれとして、正直この時私が「は?」という表情を完全に隠しきれていた自信がない。

今までの話を聞いてなかったのか?
私はがんばった結果としてこうなって、もうこれ以上一ミリもがんばれないと言っているんだ。
もう「嘆いてもどうにもならないから嘆かない」という正論すらまともに通用しなくなるまで疲れたから、今になってようやくこうして嘆いているのだ。
それを、まだがんばれだと?
何の侮辱だ。私が今までがんばっていなかったとでも思っているのか?
……いや、そうだ。側から見て結果が出ていないのだから、私なんかがんばっていないも同然だ。
私より実力がなかったにもかかわらず、諦めずに努力を続けて確かな地位を勝ち取った人もいるんだそうだ。
そうか。立派なことだ。私と違って。
頭の中でそう吐き捨てた瞬間、多分もう私の心は折れていたんだろう。
「もう何もかも嫌だ、疲れた」という感覚をうっかり自分の中に認めた途端、私はもうそれ以上、何をする気力も起きなくなってしまった。

そうとも。
私は好きで始めたはずの仕事を、この程度の困難で投げ出したくなってしまった根性無しだ。

私には、面白いとも思えない仕事をコツコツと続ける忍耐力も誠実さもない。
もちろんそんな苦しみを必要としないほどの才能もなかった。
誠実な一般市民にも天才にもなれないのなら、私は一体何にならなれるんだ?
「何者かになれ、お前は何者か」の答えを死ぬまで訊かれ続けるこの現代で?

そうやって自分を脅しながら騙し騙し走ってきたが、もう無理だ。

幸運なことに私には、きちんとした退路があった。
物語なんて書けなくても私を大切に思ってくれる家族や友人はいたし、
もちろん職場の人もこれ以上を考えられないくらい気を回してくれ、無理な長期休みもくれた。

だから、休みの間は本当に何も書かないことにした。
書かなくなったら楽になった。
楽になれて、しまった。

あーあ。
こんなもんか。
結局私、書かなくても生きていけんだ。
私はそのことに感謝しなくてはならない。
感謝しなくては、ならないんだろう。

演劇を諦めた時、自分が特別な人間でないことなどとっくにわかっていたつもりだったが、そうでもなかったようだ。
私は私のことをもう少し器用な人間だと思っていたし、
そうでなくても、もっと情熱的な人間だと思っていた。
だが、どうも違ったらしい。

惜しむらくは前回と違って、この「物語が書けなくなった絶望」というものを、もう物語に書けないことである。

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