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教員志望だった私が代表取締役になっていた経緯①〜大学編〜

今の時代、個人事業主として独立したり、起業したりする人が増え、女性社長も珍しくはない時代になっているのではないでしょうか。独立を目指してビジネススクールに通ったり、勉強したりしている人も多いはず。

私の場合、肩書きは代表取締役なのですが、従業員もいないので個人事業主の延長線上にあると思っていただいて構いません。一応株式会社にはなっております。ただ、元々独立しようとか、会社経営しようとか、全く思っていませんでした。

東京学芸大学という、ザ・教員養成大学に進学し、小学校教員を目指していました。在学中に取得した免許は4つ。幼稚園、小学校、中学校・高等学校(家庭科)、特別支援学校教諭。学生時代の私よ、よく頑張った。教員まっしぐらな人生を歩む、と思っていました。起業どころか、就活すら考えていませんでした。

そんな私が最初に道を外れ始めたきっかけは、オーストラリアへのワーホリでした。

大学3年生の頃。大体の学生は就活を始めるはず。しかし、うちの大学は、4年生になって教員採用試験を受ける人が多く、就活生が少ない。そんな環境だったので、それほど将来のことも考えず、サークルとバイトに明け暮れて3年間が終わろうとしていました。ただ何となく、海外に行ってみたいという想いはあって、友達にも話していました。しかし、英語も話せるわけでもないし、オーストラリアで先輩が教員アシスタントをしたという話を聞いただけで何か調べるわけでもなく、全く行動には移していませんでした。

「やばい、このまま教員になっても、いい教員にはなれない」そんな焦りがどこかにありました。教科以外のもっと大事なことを魅力的に教えられるような教員になりたいと漠然と思っていた私は、自分には教えられることが何もないように思ったからです。

もう一つ。「もうちょっと待って、、」という、逃げ。教員になる、ということ、社会人になる、ということを決断できずにいたんだと思います。モラトリアム期ってやつですね。

そんなある日、高橋歩さんの「LOVE&FREE」という本を眺めて、自分の中で何か沸き立つものが。その場で留学エージェントを検索し、次の日にはエージェントへ向かっていました。当時、東京の小平市に住んでいたのに、選んだエージェントは、千葉の船橋。今思うと、謎すぎます。いくらでも近場にありそうなのに、わざわざ片道1時間半の道のり。ただ、結果的にはとてもいいエージェントさんでした。当時貯金も大してなかった私に、留学でもなく日本語教師アシスタントでもなく、ワーホリなら安く行けるというアドバイスをくださったことで、より長く海外に滞在できました。

そこからはトントン拍子でコトが進み、休学届けを出し、出発日を決め、割りのいいバイトに変えました。親に伝えたのは、休学届けを出す時だったかと思います。大学3年の3月から3〜4ヶ月の間、バイトに明け暮れてお金を貯めました。確か、貯めたお金は80万くらいだったと思います。いくら必要になるか、全く計算していませんでした。笑 オーストラリアで何をして過ごすのか、どこで暮らすのか、いつまで滞在するのか、何も決めていませんでした。一つ決まっていたのは、最初の2週間、仕事を探す間のホームステイ先のみ。ちなみに、なぜオーストラリアにしたかというと、日本語教師アシスタントをした先輩が行っていたのがオーストラリアだったから。今思うと、よくそこまで何も調べないで行ったな、と。

ちなみに、前述の通り、専攻は家庭科だったので英語も全然話せませんでした。どちらかというと、英語は苦手意識がありました。でも、「喋れないから行こう」と思ったのです。行けば嫌でも喋れるようになるだろう、と。安易ですね。でも、実際なんとかなります。英語話せるようになりたいなら、海外行った方がいいです、間違いなく。

こう思い返していると、昔の自分の行動力を取り戻したくなります。頭より先に体が動いていたあの時の自分。「歳を取るごとに腰が重くなる、そんなの嫌だ!私はいつまでも行動力ある人間でいるんだ!」今もそう思っているのに、、すでに重くなってるではありませんか!!!昔の自分を思い返すと、自分自身から学ぶこともあるんですね。。この記事書いてよかった。

って!脱線しました、すみません。

ってな訳で、何も考えず、何も調べず、何も勉強せずにオーストラリアへ。唯一決めていたことは、「オーストラリアの学校で先生をやってみる」ということだけ。

これをきっかけに私の優等生人生は幕を閉じていくのであります。
・・いや、大学時代飲み歩きまくってたし、お父さんには内緒でスナックでバイトしてたし、、すでに閉じてたか。笑

続きは次へ。

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