【1004/1096】当たり前を疑え
自分が当たり前だと思っていることは、他者にとっては当たり前ではないかもしれないということ。
そのことにどのくらい気づけるか。
違いを認めあうというのは、ここから始まると言っても過言ではないよなと思う。
普通で当たり前のこととされていることは、出来て当然、出来ないのは本人の努力が足りないからだと思われ、
できないことの理由を尋ねてもらえることは、ほとんどないし、理由を尋ねてもらっても説明できないことが多い。
私は、普通で当たり前であることを相当努力して身につけてきたし、それはたいへんだった。
たいへんだったので、やらない人を見ると異様に腹が立った。
20代の頃など、毎回遅刻してきて、許されている同僚には殺意が湧いた。なぜ、申告もなく遅刻してきているのに通常査定されるのか?社員就業規則と違っているではないか?と訴えたことがあるほどだ。
社員就業規則に載っている当たり前のことをしないと給与は減額されるはずである、と。
ものすごく嫌がられた。5分遅刻してくるくらいで目くじら立てないで、もう少しおおらかに見てあげてと言われたが、まったく理解できなかった。
「え?じゃあ、私も毎日5分遅刻していいですか?」と聞いたら、それはダメだと言うのである。
なんじゃそりゃ!となっても致し方あるまい。
業務成績をあげている男性社員には甘かったのである。
そうしてあげることが当たり前で、そうしないほうはわかってないやつになっていた。
でもこの当たり前は、文脈によって変わる。
だから当たり前などあってないようなものだ。
ちなみに、その翌年にトップが変わって、非常に時間に厳しい人になったら、途端に彼は厳重注意されていた。
私に、「大目にみてやってよ」と言っていた上長が厳重注意していて、鼻白むとはこのことかと思ったものである。
当たり前を疑わずに済む人は、自分がマジョリティ側にいるからである。
特権階級であるから、当たり前を疑う必要がない。
自分の当たり前をそのまま適応すればいいからである。
しかし、力のない側はそうはいかない。
いつも説明が求められるのは、力のない側であり、必要なものが与えられないことをあらゆる努力をして説明する責任を求められる。
特権階級にいるやつは質問すればいいだけである。
質問する側は場をコントロールできる。
そして、こちら側からの質問は打ち切れば終了できる。
それでも声を上げる人たちによって、勝ち取って来たものもたくさんある。
その当たり前は、100年前には当たり前ではなかったものかもしれない。
自分の当たり前を疑え。
まずはそこから。
では、また。