【91/1096】仕舞い方
91日目。子どもと手をつないでバスに乗る。道すがら、ずっと手をつないでいたのだけど、こうやって手をつないで歩くのも、だんだんしなくなるんだろうなとふと思い、こういう時間を大切にしたいんだなーと思いました。
100日目が見えてきて、点を置いておくというのも案外大事かもしれないと思ったり。
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仕舞い方について、考え出したのは、一昨年、クラファンをして出版をしたころだったように思う。
そのころ一緒に活動していた仲間と「仕舞い」について何度か話す機会があって、自分は仕舞い方というものを考えていなかったんだなと思った。
どちらかというと、終わりにしたくないというほうが強かった。
別れというものが嫌いだった。
終わりがはじまりというけれども、終わりにする前に始めてしまって、終わりを曖昧にしてしまうことが多かったと思う。
お終いを感じ切りたくなかったのだと今ならわかる。
別れは身を切られるようにつらいから、感じるのがイヤだった。
感じないように回避していたのだ。
だから、いつまでも仕舞わない。
そして、私だけでなくて、終わりを曖昧にする人はけっこう多いように思う。
学校を卒業した後は、きっぱりここでおしまいと区切られることがなくなるから、あいまいにしやすいし。
終わりにして、仕舞うのは結局のところ、自分自身の内側で起きていることだからだ。
終わりが近づいてくると呼吸が浅くなったり、息をひそめたり、息を詰めたりしてしまう。
終わりの衝撃を少しでも和らげようとガードを固めて、感じないようにする。
終わるまで酸欠で、終わった後にホッとして溜息をついてごまかす。
これらは、内側で起きていることを仕舞っていない。
そのようにして、やり過ごしてきてしまったものが、身体の中で残っている。
ひとつひとつ、きちんと終わらせる。
仕舞いをつける。
まさに一挙手一投足で仕舞いをつける。
子どもに「片付けて」と何度も注意しても、なかなか片付けない。
片付けるということをしないってことは、仕舞うということをしていないってことだなと思う。
私が、長年そのようにしてきたから、子どももそのようになっているのだなと思う。
しかし、わたしは、最近は所作のひとつひとつを仕舞っている。
だから、子どもたちも、これからどのように変化していくのかが楽しみだ。
普段仕舞っていない人は、人とお別れするのもへたくそだ。
相手に別れをきちんとつげる、終わりをはっきり伝えるということをしない。
なんとなく、そういう流れにもっていって、相手に察してもらおうとしたり、はっきり言わなくてもわかるだろうと相手の理解不足を責めたりすることもある。
必ずしも、口に出してはっきり伝えなくてはいけないということではないのだが、なんというか、へたくそだなと思う。
きちんと仕舞える人は、はっきりと終わりがわかるのだ、お互い。
区切りと言ってもいいかもしれないけれども。
仕舞い方は、人それぞれではあるが、日々の一挙手一投足が、すべてに通じている。
そのことを、年頭に思い、忘れないで一年を過ごそう。
では、またね。