
【329/1096】なぜそれを今、問うのか?
329日目。近所のパン屋さんが来月で閉店してしまうらしい。高いので頻繁には買えなかったが、食パンおいしかったのになあ。
「なぜ、これを今、質問されたのか?」がわからない状態で質問されると、答えるのがイヤになることがある。
そういうときは、たいてい、聴く側の人が情報を欲しくて質問していたり、自分が安心したくて質問している。
しかし、そのことに気づかない人も、すごく多い。
たいてい「相手によかれと思って聞いている」という。
セッションの練習を仲間どうしでしているときに、「あれは雑談で、そんなたいしたこと聞いてないし、安心すると思ってした」と言われたときは、あごが外れるかと思った。
傾聴のけからやりなおして学びなおせ、と思う。
思うけど、それが現実なんだなーとも思う。
共感的傾聴は、
・相手を判断しない
・相手の立場にたつ
・相手の感情を受け取める
・相手に理解を伝える
で成り立っている。
ここに、自分は必要ない。
相手の話の中で理解できないことがあったときに、相手はわかっているのに、聴き手だけがわかっていないということがある。
そのとき、聴き手が理解するために質問する必要はない。
でも、ここでたいてい質問をいれてしまう。
自分が理解しないと、セッションが進まないと思っているので。
この質問をされた側は、もんのすごいイヤな気持ちになるので、注意したほうがいい。
わたしはちゃぶ台をひっくり返したいくらいのイヤな気持ちになる。
もちろん大人の対応としてちゃぶ台はひっくり返さないが。
そして、多少いやでも答える。
それが大人の対応なので。
でも、それは「聴く(共感的傾聴)」ではない。
自分のためにしている質問と、相手が整理できてなさそう、もう少し突っ込んで聴いたほうが相手の理解が進みそうと思ってする質問とはまったく違う。
相手が観えていないうちは、これがなかなかわからない。
自分もそのように失敗したことはありまくるし、あのとき、相手はきっとちゃぶ台ひっくり返したかったろうな、、、と反省する。
過去にインタビューを受けたときに、「これ、なんで、答えなきゃいけないんだっけ?」というイヤな気持ちになってしまったことがあった。
あれは、記事を書くための相手の質問に応えるのがイヤになったんだなと今ならわかる。
記事にしやすいわかりやすい答えを、自分の中でつくり出して応えなくてはいけなかった。
もちろん、嘘ではないんだけど。
まあ、記事にしたくてインタビューされてるのだから、イヤになった私もどうかとその時には思ったのだが、でもあれはやっぱり断ってよかったのだ。
イヤなものは仕方がない。
いつもずーっと共感的傾聴で話を聴くわけではない。
情報や知識のやり取りもあるし、伝達のときもあるし。
そういうときは、確認のための質問とかバンバンあるだろう。それがダメとかではまったくない。
なぜ、今、その問い(質問)を投げかけるのか?
は常に自分自身に問い続けておく。
では、またね。
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