自由を求めて不自由になってしまう話
色々と何かとストイックなことは好きな側面があったのだが
過去に勧められて始めたことが心地よく、不思議と必要を感じるとか…そういうことから始まっても
そのうち『〜しなければ』になって…しんどくなってきて
でも最後にゃ『それ無しでは不安』になってきたりしてさ
どんな良いことだとしても、義務になって執着になれば、最初の本質が失われる気がするのだ
ただ『したい』から『する』でなくなったら依存だなと、そんなの意味がないと感じるしね
それ以外に、そうすると良いと聴いて信じてやってたことが、時を経て『それ何の意味あんねん』とある日ハタと思うとこともある
例えば…ここに行ってこういうやり方でないといけないと信じていたことが
いつでもどこでも自由に気軽にできることを体感できたら、そうなってしまう
それも…後者の方が核心に近いとすれば
そんな遠回りなことしないよなぁ…って話だ
そうやって、それまで信じて疑わなかったやり方がある時をきっかけに概念を覆されると『それ何の意味あんねん』になるというやつだ
そんなコトより近道あるコトを知れば、もう戻らないよね…遠回りが好きな人はいるけどさ
案外自由になるために仕入れたアイテムや思い込みで、不自由になってしまってる…なんてことは本人は気がつかないものだし
人は誰でも色々と自由になりたい、幸せになりたい…そう思うことだろうが
自由を求めて不自由になる…そんな風景も見かけるよなぁ
本来元々自分の魂は自由で自在が標準装備だけど、生きる過程の経験や教育とかで得た色々が自分を不自由にしてるに過ぎないわけで…
もっとも現実社会の物質的な不自由なことですら、自分次第で自由にも不自由にも選択できる話だろう
自分は不自由だから苦しいからと、自由に楽になれる方法を求めるが
今度はその方法をうまくできないと苦しんだり
その自由になれる方法に執着したり依存したり
方法に依存すれば、本質は見ないで済む…人は巧みに自分の見たいモノは見ないようにするし
そこを指摘されない場所では、安心して過ごすこともできよう
その方が都合のいいこともあるのが人の常かもしれないなぁ…だからそんな場には違和感があったりするのだろう
なんて、最近そんなことは思うことが多い
あなかしこ〜あなかしこ〜