料理というサバイバル力
料理家の友人が多く、彼らとよく話をします。
たまに、
「生徒さんから“びっくり水はどこで買える?”って聞かれちゃった」とか
「耳たぶのやわらかさ、って言われてもわかんないんですって」とか
そういう話を聞くたびに、
マジですか、キャハハ!
と一緒に笑ったりしていたのですが、ここでごめんなさいと申し上げます。
私はもっと、ひどかった。
もう時効だと思うのですが、
妹とタピオカミルクを作っていた際、ミルクを入れすぎて味が薄まり、
それをなんとかしようとして味の素を入れたことがあります。
(化学調味料だなんて意識なかったんですもん。“味の素”というネーミングに、幼心にやられたのだ)
大学時代に恋人が出来、「酢豚」を作ってあげようとした際、
片栗粉は水で溶いて入れるもの、という常識を知らず
水玉模様のように白い片栗粉の粒が浮く摩訶不思議な料理を食べさせたこともあります(フラれました)。
母の尊厳を保つために申し添えますと、親は真っ当でした。
手作りのもの、時間をかけた料理で育てられた自負もあります。
しかし、娘はそんなことでは学ばなかったのです。
社会に出て、雑誌の編集部で料理ページを担当するようになり、
また、一人暮らしや二人暮しを始め、
誰も私の「ふだん着ごはん」は作ってくれない
と認識して以来、ようやく料理に着手したのでした。
その結果、私が手に入れたのは、
・それっぽい顔をして仕事を続けていられる
・カジュアル店でも高級料亭でも、ありがたく感謝して食事が出来る
など、素敵な戦果が多々あるのですが、
最も大きな収穫といえば、
人生をサバイブする力が(少し)身についた
ことではないかと思います。
以前、「料理で、自分のご機嫌をとれる人になる」という記事で書いたのですが、
一人だとレストランに行けない、とか
「食べたいものは自分で作る」と考えられないでいるうちは、
食で自分を慰めるという最も原始的で効果のある方法が使えなくなります。
そんなに上手とは言えないまでも、
キッチンに立つのが苦じゃない女になって、よかった。
いや、今後苦になったとしても、レストランで一人ごはん上等だ、
と言えるようになってよかった。
何度も言いますが
「食欲という生理現象」を自ら司(つかさど)れるということは
人生を歩むにあたり、とっても重要なことだと思うのです。
……というこの言葉を、本当はもっと伝えたい人がいます。父です。
父は、家族で外食をしている際に時々
「これ、うまいな。こんなの、家で作れないのかな」と
屈託なく口にすることが多い食いしん坊なのですが、
おそらく、これからの時代にそんなことを言おうもんなら
作れば? 自分で
と妻からもパートナーからも娘からも孫からも言われてしまうでしょう。
今のところ、年老いた夫婦の楽しいコミュニケーションネタになっているからいいのですが、
もし母が先に世を去ったら? 毎日外食するからいいもん、とは言えません。
そもそも、「楽しい孤食」を経験しないままにその環境がガラリと変わると
たちどころに食糧難に陥ってしまうのではないかとさえ思えます。
父だけでなく日本中の料理嫌いの人たちに、本気で言いたい。
自分の食に向かい合うことは、サバイバル能力をあげることです。
レシピサイトに載っているレシピを疑って自分好みにアレンジしたり、
作りすぎた五目煮を翌日カレーにチェンジさせたり、
「レモンとパクチーがないけど、柚子とクレソンで代用してみようか」と思える柔軟性と創造性を身に付けたり、
そんな風に、気負わず日々のごはんを考えられるようになれば
ラーメン屋さんでも一流料亭でも、
ポイントを外さず、きちんと感動できるようになると思うのです。
どんなに食の流通が発達しても、
健全で潤いのある食生活を丸ごとお金で買うことは出来ません。
もし、莫大な財力をもってそれが可能になったとしても、
そこに自身の思想を含めることは難しいはずです。
お金、時間、そして食。
そういうものに対して自分なりのビジョンを常に持つこと。
年齢も職業も性別も問わず
それこそ、令和サバイブの必須条件だと思っています。
フードトレンドのエディター・ディレクター。 「美味しいもの」の裏や周りにくっついているストーリーや“事情”を読み解き、お伝えしたいと思っています。