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母校、筑波大学附属小学校

この間、母校に行き、私を育てた恩師に会ってきた。

私は筑波大学附属小、中、高と生活を送ってきた。これを中では「スーパー内部生」、略して「スーナイ」と言われる笑 
そう、私はスーナイなのだ。

最近では、筑波大学附属高校は以前悠仁さまがご入学されたと話題になっていた。
つまり、悠仁さまはこんな私の後輩となることになる。(後輩と呼んで良いのかわからないが笑)

私の小学校の担任の先生は低学年の時、クラス替えを経て高学年の時と2人いて、その2人がまさかの今や校長先生と副校長先生で勤めている。
驚き!
この間、校長室に行き会ってきた。
先生は髪の毛がいい感じに白くなっていたが、私のことを鮮明に覚えてくださっていた。嬉しかった。

スーナイはラクしてると思われることがあったが、全員が小学校から中学、中学校から高校と上がれるわけでなく、それはそれは色々大変だった。

幼稚園生の私は、本当は家から近い小学校に行きたかったが、父母からそこは落ちてしまったと聞かされ、そんな嘘をつかれてるとわかるわけもなく、筑波大学附属小学校に入学したのである。

今思えば物凄く恵まれた環境だった。
まず、一教科ごとに担当してくださる先生がいた。算数は算数の先生、国語は国語の先生、音楽は音楽の先生と全教科いらした。
また、その先生一人ひとりが全国に配られている教科書を作ってる先生であった。教科書の最後のページを見ると必ず習っている先生の名前が載っていた。
そして行事が沢山あった。
遠泳、登山、芋掘り、清里合宿、、、、
小学生で遠泳2キロ、登山は赤岳とハードではあったが、兎に角楽しかった。
校舎は茗荷谷にあるが、自然に囲まれて校舎も1運、2運とグラウンドが二つありそれはそれは広かった。

これがどんなに恵まれた環境だったか、、、
父母が嘘ついて私を入学させた意味もわからなくもない。

こんな恵まれた学校にも関わらず、私は低学年のころ一時期不登校になっていました。
あ、高校の時も若干なっていました。(このことはまた改めてノートにしようと思う)

先生とは色んな楽しい思い出話ばかり。
縄文時代VS弥生時代で班分けしてそれぞれの時代に合わせた食べ物で合宿したり、
落語発表したり、
卒業生の野村萬斎さんの前で狂言をしたり、

沢山の生徒を教えてきただろうに、私がこんなことしてたあんなこと言ってたなと細かく覚えててくださっていた。

なによりも嬉しかったのは
私が出てたTV全て録画していて、いつか附属の先輩で来てもらおうと思ってるんだ!だから頑張ってね!
と。

私が一瞬しか出てないテレビも見てくださっていた。

芝居の道はやはりなかなか大変だが、こういうお言葉からやる気がみなぎる。
励みになる。

本当に感謝感謝だ。
こんな先生に恵まれて幸せだった。
小学校に伺えるように芸歴もっとつけて頑張ります。

私が芝居に目覚めた時
野村萬斎さんから狂言を学んだ時
芋掘り後遊んでる様子
三つ子の魂百まで


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