04. がまんする女。がまんするこども。
幼少期の記憶。
(弟が居ないから3歳未満の記憶) 母はいつもほとんど言葉を発さず、わたしを見ない。わたしの話も訴えも聞き流す。何かを「やるな」とか抑制や指摘や否定の言葉だけを言われる。
わたしが座位を取れるか取れないかの頃、座位保持椅子に座らされた。まだ立てないのに歩行器に入れ、放っておかれた。母の姿は見えない。とにかく暇だった。周囲の物に手は届かないし、話す人も遊ぶ相手も居ない。何の音もしない。探索も出来ず、泣いたって母は来ないし無駄な力を使うだけで疲れる。早々にあきらめの極地に居た。ほぼ未熟児で産まれたので、そもそも生きる活力のようなものが圧倒的に足りなかったのかもしれない。
父が仕事から帰って来ると、母の雰囲気も変わるのでいくらかほっとした。ただ、父もまた声を荒げる性質があった。
わたしはその場や相手の望む言葉を発することに長けた。なんとなく昔からひとの感情は読めたし、何より両親が理不尽に怒るのが怖かった。生存戦略だ。そんな状態だったので、学生時代は目立たないように、感情を殺して死んだように生きていた。そんな状態だったので、常に体調も精神状態も最悪だったが隠し通した。
無理に座らされ歩かされたので、自分の筋力や骨の発達も悪い。鍛えてもすぐ筋肉が落ちるし、骨も折れやすい。
後に弟が産まれてわたしはひとりじゃなくなるのだが、わたしに施されて来たことは愛というよりは虐待であるということに気づけたのはここ数年のこと。ずっと「愛されていなかった」「人として扱われなかった」ということが悲しすぎて、認めるだけの心の強さが無かったのだ。うまく言語化も出来なかった。それにまったく気づいてもいない両親が可哀想とも思っていた。 …と同時に、気づかないことに怒りと悲しみの感情も持っていた。わたしが無理をして合わせているということにいつか気づいてくれるんじゃないか?本当はすでに気づいているんじゃないか?···という淡い期待もあったが、やはり期待外れに終わり、もうあきらめた。
どんな親であっても親だし、「親孝行」と思って尽くして来たけれど、38歳の時に「もう恩は返し終えたな」と思った。35年ローンだ(笑)。よく返し切った自分!受け取ったものよりも、提供してきた・犠牲になってきたものの方が遥かに大きい。3倍返しくらいはしたからもういいだろう。
新たな時代へ
世の中すべての「母」「女性」の我慢と犠牲。特に昭和まではそれが強く、その我慢を喰いものにして世が成り立っていた。戦時中を生きた人たちの話を聴くと、本当に凄い。凄まじい。(男女とも) 色々な人たちのお陰で今がある。
母もまた、暴言を吐く父の被害者で、私はこどもながらに「かわいそう」と思って寄り添って来たのだが、一番かわいそうなのは自分だった。最近ようやく昭和で「常識」とされてきた「非常識」を言語化してくれる人が増えた。抑圧されてきたのは私だけじゃなかったんだ。ようやく自由になれた!
「みんな親のため、子のためと言い訳をしながら生きているけれど、どこかで着地するひと(=自分自身を全うする人)が居なければご先祖たちも浮かばれないのではないか?」と、わたしは小さい頃よく思っていた。今もまだ過去の呪いや世の雰囲気に縛られているひとは多い。男女関係なく。
そろそろ変えても良いんじゃないかな。
我慢はもう一生分したと思うよ。
あとは自分の生きたいように、悔いのないように生きて死ぬだけだ。
人生は一度きりだ。