「望まれて生まれてきたあなたへ」やまもとりえ
3時間目まで仲良くしていた友達に、4時間目が終わり、昼休みになってから、無視されたことがある。何を話しかけてもそっぽを向かれ、いないものとして扱われた。
無視はしばらく続き、私はお弁当を一緒に食べる子がいなくなって、それを他のクラスメイトに知られたくなくて、お昼休みは亡霊のように学校を漂った。
何がきっかけだったか、その子は謝ってくれ、無視は解消された。でも信頼関係が戻ることはなかった。今、帰省するたび会うのは、その子ではなく、そのとき、臨時のお弁当仲間になってくれた別の友達だ。
その子が謝るとき、「家族みんな仲がいい、あなたが羨ましかったの」と言われた。じつは、その子の家では当時、両親の離婚問題が勃発していたそうだ。
知らんがな。
と、私は思った。なぜならその時、私の父はがんで入院していたからだ。母とお見舞いの帰り、病院併設の喫茶店でティラミスを食べ、「もうこういうケーキは食べられないかもしれない」と思い詰めた顔で言われた。
毎晩寝る前に、「私にこの先なにもいいことが起こらなくていいから、父を助けてください」と祈っていた。だから私には反抗期がなかった。
人が人を思いやることは、とても難しい。自分の辛さばかり、よく見えるから。
――産まれたばかりの赤ちゃんを埋めたのは、わたしの友人だった。
やまもとりえさんのコミックエッセイ「望まれて生まれてきたあなたへ」は、新生児遺体遺棄事件で逮捕された望を、昔の親友・まどかの視点から描いた作品だ。
赤ん坊を産み落としたまま、放置し、死なせる。遺棄する。そんな事件は現実でもよく見る。
以前は、「ひどい」「赤ちゃんかわいそう」と憤っていた。でも、自分が妊娠し、十月十日を経て出産してから、〈彼女〉の孤独に眼がいくようになった。
私が妊娠したときは、まず夫が喜び、保健師さんから母子手帳をもらい、安定期を過ぎれば親戚一同が喜び、上司には業務を減らしてもらい、友人からはお祝いをもらった。定期的に検診に通い、産院がやってるマタニティヨガに通い、妊娠前は絶対恥ずかしいからやめようと思っていたのに浮かれたマタニティフォトを撮り、産後は拡がった骨盤を戻す産後整体に通った。
その間、〈彼女〉はずっと一人だった。たった一人で出産の日を迎えた。それがどれほどの困難なのか、どれほどの恐怖なのか、どれほどの孤独なのか。今はそれが気になる。
ネットニュースのコメントがいうように、〈彼女〉は非道な人間で、股の緩い無責任なバカ女なのだろうか。赤ちゃんのことを、なんとも思っていなかったのだろうか。
まどかは望のことを考える。いつも、家にいて、中学のときに生まれた自分の妹の世話をしていた、望のことを考える。
望の母親のことを考える。夜の仕事をして、あまり家にはいなかったけれど、望の名前の由来を聞いたら、「生まれてくるのを待ち望んでいたから」と答えた望の母親のことを考える。
まどかは自分のことを考える。東京で人生が充実したら、あっけなく望のことを忘れてしまった自分のことを考える。
人が人を思いやることは、とても難しい。自分の辛さばかり、よく見えるから。助けて、というのも、とても難しい。自分の辛さは出口がなく、とても重たく見えるから。
私達は〈彼女〉の孤独に、どうやって介入したらいいのだろう。
本作は、カドカワのコミックエッセイシリーズ「立ち行かないわたしたち」の一つだ。陰謀論、教育虐待、いじめ加害など、様々なテーマを読みやすいコミックの形で世の中に提示している。
痛ましいニュースがあるたびに、立ち行かなくなった彼女たちにどうやって支援の手を届けたらいいのだろうと考えていた。
母子シェルターや、生活保護や、いろんな社会的手立てを知っているのは、生活に余裕があり、パソコンやスマホを持っている、「立ち行かなくなってない」側だからだ。
だから、私はこの「立ち行かないわたしたち」シリーズを、とても応援している。まんがなら、本当の「立ち行かない」人たちへ届く可能性がある。
「望まれて生まれてきたあなたへ」は、他者の背景を想像してみることをずっと提案してきた、やまもとりえさんだから描ける結末が待っている。おすすめします。
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