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「エッセイは小説の下じゃない」宮崎智之さんと話したこと

評論家でエッセイストの宮崎智之さんと、CINRA JOBで対談した。

エッセイストとしてデビューしたとき、周りから「次はきっと小説家になれるよ!」と励まされた。「小説家になりたい人」を自称して連載をしているので、「清の最終目標=小説家」と思われているのだろう。まあ、そう思うよね。それは自分がそう演出しているから、仕方ない。

ただ、もう一つの意味に私はモやる。
小説は高尚で、エッセイはそれより劣るもの。だから「次は小説家にステップアップしなよ!」と思われている気がする。ひねくれた見方でしょうか。

かくいう私もそう思っていた。
だってエッセイって、小説家かタレントが、本業のかたわらに書くイメージ。小説家になってからエッセイを書く人がほとんどで、エッセイストになってから小説を書く(そして成功する)人は少ない。だから、どうしたって、小説のほうが難しくて、エッセイのほうが簡単、って感じがする。
「小説のほうが長いし、創造性も必要だし。エッセイは短いし、実際あったこと書けばいいわけでしょ」

まあね、たしかにね。ただね、実際にエッセイを一冊分書いてみたらね、私は思ったよ。

エッセイって、すごい。
だって、エッセイって、私が小説でやりたかったことができる。

『夢みるかかとにご飯つぶ』のあとがきを読んだ人はご存じだと思うけれど、私には大切な人に死なれた経験がある。
憧れていた人が、この世界に絶望して、人生を閉じてしまった。

だから私は、自分の一生をかけて証明したいと思った。

「世界はそんなに悪いところじゃない」

そうじゃないと、生きている私を肯定してあげられない。私が産んだ私の子どもたちを肯定してあげられない。そして、死んだその人が生きていたことを肯定してあげられない。

だから、覚悟を持って、性善説で楽天家で夢見がちで行くことに決めた。

その証明に、エッセイでしかできないことがある。

エッセイで書くことは、実際に起こったことだ。
この世界にたしかにあったことを書く。
たしかにあった喜びを、たしかにあった優しさを。

書いてあることが、空想でも例えでもないこと。
それを体験した人が、同じ世界に普通の人として今もいること。

その強さが、エッセイにはある。

宮崎さんは「随筆復興」を掲げて活動している。
私ももろ手を挙げて賛成する。随筆復興の一員となることに決めた。
文フリでは、「三人称エッセイ」に挑戦しようと思っている。

エッセイは、文芸だ。


※写真はCINRA JOBからお借りしました。撮影は服部芽生さん。






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