小説『羊羹と猫と梅の花』
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「ようこさんって、なんだか、木、みたいっすよね」と言われた。
はたしてそれが褒め言葉なのかどうか分からず、わたしは「ありがとう」と曖昧に微笑んでおいた。それからその青年は、「野菜でいうなら、アボカド、って感じっすかね」とも言って、となりにいた女の子から透かさず「ちがうよ。アボカドは野菜じゃなくて、果物だから」と指摘され、「え?そうなの?ウソでしょ」と話題は自然と別の方へと流れていって、わたしはほっと胸を撫でおろした。
昨日の夜の、飲み会でのひとこまである。
普段は飲み会と名の付くものには極力参加しないわたしであるが、昨日は上司の送別会も兼ねていたため断ろうにも断りきれず、渋々参加をしてみたものの、やはり飲み会はほとほと疲れるな、と思った。
緑茶をすする。濃いめの緑茶だ。
ティーバッグではなく、丁寧に急須で淹れた。そしてお皿のうえにはつやつやの羊羹がふたつばかり載っている。給料日に必ず買う、老舗和菓子屋の小形羊羹だ。ささやかな、自分への慰労を込めたご褒美である。昔から和菓子が好きで、クリームよりも餡子を好む渋い子供であったが、大人になった今でも舌の好みは変わらず、やはり洋菓子よりも和菓子に目がいってしまう。なかでも羊羹は特段好物で、子供の頃はそんなわたしに、変わっているわね、と笑う人もいて戸惑うこともあったけれど、四十代も終わりに近づき、むしろ、ずっと和菓子を好み続けてきた自分の一途さに、ちょっとした誇りのようなものを感じてしまう。
軽く息をつき、外へ目を向ける。
いま暮らす古い木造アパート一階のこの部屋には今どき珍しく縁側があり、その向こうに、山茶花の生垣で区切られた小さな庭がある。給料日のあとの休日は、こうして畳敷きの部屋で羊羹を口にしながら、庭をぼんやり眺めるのがお決まりだ。緑茶をすすり、あいま、黒文字でうすく切りとった小倉羊羹を咀嚼すれば、程よい弾力を顎に感じ、餡子の穏やかな風味と上品な甘さが口のなかへと広がっていく。まさにほっと落ち着くひとときである。
結婚はせず、学生時代から続く一人暮らしもすっかり慣れたもので、このまま平穏無事に老後を迎えたいと思うときもある。職場ではすっかりベテランの域に入り、まわりがせわしなく入れ替わるあいだ、ずっとそこに根を生やして居続ける自分は確かに、昨晩の青年が言ったように、木、のようなものかもしれない。アボカド、というのはやはり今もまだ、よく分からないけれど。
庭に猫がやってきた。
ときどき見かけるその猫は、顔が黒くて、体は白くて、でもお尻のあたりに左右対称に黒い斑点のある不思議な模様の子だ。野良なのか、飼い猫なのか、庭にするりとやってきて、じーっとこちらを見つめている。猫にこの羊羹のおいしさが分かるだろうか。庭には梅の木が一本あり、その手前に猫が佇む様子は、さながら掛け軸の絵柄にでもなりそうだ。
わたしが姿勢を正そうと体をすこし動かすと、猫は敏感にそれを察知し、どこかへひょいっと逃げてしまった。構わずわたしは姿勢を正して座りなおし、小倉羊羹をまたゆっくりと味わい、次に、皿にのこる抹茶入羊羹にとりかかる。新緑を思わせる澄んだ緑色のその羊羹は美しく、黒文字で切り分けて口に入れれば、抹茶の香りがほのかに鼻を抜ける。こちらも小倉羊羹同様、上品な甘さで、思わず背筋を伸ばして姿勢良くいただきたくなる。
目を閉じて、その味わいを深く感じていると、猫の泣き声がして、見ると、またあの猫が一匹、庭の梅の木の前で佇んでいた。いつのまに戻ってきたのか、猫はまた微動だにせず、ビー玉のような黒々したふたつの瞳でこちらをじっと見つめている。猫はまた、掛け軸のなかに戻ってしまった。わたしは気にせず、その姿を鑑賞しながら羊羹を食べ進める。が、ひょっとしたらあの猫の目から見れば、わたしも畳敷きの居間で羊羹を食べる一人の女の絵として映っているのではないか、と思いついて、ふいに可笑しさが込み上げてきた。
ふふふ、と思わず声をだして笑ったら、猫は驚いたように両耳をたて、またひょいと体を翻し、垣根の向こうへ消えてしまった。わたしはのこりの羊羹すべてを平らげ、またひとり、ゆっくりとお茶をすすった。
静寂に身を委ね、口にのこる微かな甘みを探るひとときは、得も言われぬ甘美な時間だ。
猫も去り、庭には何もないけれど、梅の木にのこるわずかな花は、白く小さく愛らしい。
(了)
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