小説『羊羹と犬と梅の花』
おいしいものから生まれる小さなストーリー〈番外編〉をお届けします。
以前投稿した『羊羹と猫と梅の花』の続編となります。(約2500字)
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「ようこちゃん、緊急で悪いんだけど、明日と明後日、ワン助のこと預かってくれないかな?」
そう大家さんに言われたのは、昨日、帰宅したときのことである。隣県に住む大家さんのいとこが老衰のためお亡くなりになり、それで通夜と葬式に行くあいだ、大家さんの愛犬であるワン助を預かってほしいと頼まれたのだ。
「いいですよ」
とそのときすぐに答えることができたのは、明日と明後日が土日で仕事が休みであったのと、学生の頃から大家さんには非常にお世話になっているという恩義があったからだ。それに何よりも、ワン助のことが心配だった。ワン助は大家さんが五年ほど前に知人の保護ボランティアの方から引き取った小型の雑種犬で、このアパートのなかで人見知りのワン助が懐いているのはおそらくこの自分だけだろう、という自負もあったからだ。
そして今朝、「ワン助、いい子にしているのよ。ママ、明日の夕方には帰るから」と喪服姿の大家さんはワン助にそう言い聞かせ、せわしなくアパートを出ていった。ワン助は必死にそのあとについていこうとわたしの腕のなかで暴れたけれど、大家さんの姿が見えなくなると、あきらめたようにワン助は「くうん」とおとなしく腕のなかで小さく鳴いた。
やはり懐いているとはいっても、飼い主がいないと様子が異なるようで、ワン助は不安な顔で落ち着きなくわたしの部屋をうろうろした。畳の匂いを嗅いだり、柱の匂いを嗅いだり、途中、庭に飛び出しひやっとしたが、すぐに戻ってきたワン助は部屋のすみっこで遠慮がちに丸くなった。
給料日のあとの休日の今日、いつもなら好物の羊羹を食べるのが常なのだが、この状況下において意固地にそれを決行するのはいかがなものか―、と迷いながらも、やはり、意固地にそれを決行した。
紅茶味の羊羹をひとつ皿にのせ、熱い紅茶とともにいただいてみる。羊羹なのに、後味はまるで紅茶を飲んだかのように華やかでうっとりとする。そして実際に紅茶も飲んでみる。口のなかは紅茶の良い香りで満たされる。庭に目をやれば、梅の木の白い花は最近の暖かさのおかげもあってか、満開を迎えている。
「ワン助、大丈夫かい?」
訊くと、ワン助がやってきた。目をきらきらと輝かせている。どうやら羊羹に興味があるらしい。が、これは人間用のおやつなので、ワン助には大家さんから託された犬用ジャーキーをあげてみる。喜んでガジガジ食べる。尻尾があがってきている。どうやら安心して心許してくれているようで、ほっと胸をなでおろしたわたしはまた羊羹の続きにとりかかった。
「わん!!」
突然、威勢よくワン助が吠えて、思わずわたしは座布団から数センチほど飛び上がった。見ると、縁側の向こうの小さな庭に、ときどきやってくる白と黒の不思議な模様の猫がいた。猫はワン助の存在に驚いたようで、急いで垣根の隙間をくぐり抜け、すぐに姿を消してしまった。あらら、と思う。これで猫がもう来なくなったら、それはちょっと淋しい。けれど猫のおかげでワン助は息を吹き返したように威勢よく吠えまくる。そうだ、ワン助はこんな犬だった。大家さんがいるときにはいつも強気な姿を見せてくれたものだ。
殺風景なこの部屋が、ワン助のいるおかげでやけに活気づく。本当はもうひとつ、季節限定のいちごの羊羹を買っていたのだったが、それは今日はやめにして今度にしようと思った。それよりもワン助と過ごせる束の間の時間を楽しもうと、わたしはワン助にたくさん話しかけ、次第に心開いていくワン助をたくさん撫でまわしてやった。
夜。ワン助はまた急に悲しくなったのか、「くうん」と鳴いたが、大家さんから預かってきたワン助用の毛布と大家さんの匂いの浸みこんだカーディガンをだしてやると、ワン助はやがておとなしく眠りについた。そして互いに就寝した夜中、ふいに重みを感じて目を覚ますと、いつの間に移動してきたのか、わたしの布団の傍らでワン助が眠っていた。すーう、すーう、と小さな寝息を立てている。見ると、茶色い毛でおおわれたお腹のあたりが、その寝息に合わせるようにゆっくり上下している。日中、ひんやり濡れていた鼻はさらりと乾き、二つの小さな穴から温かな空気を出し入れしている。ふふふ、とわたしは笑った。長いことここに一人で暮らしているけれど、これまで淋しいなんて思ったことは一度もなかった。けれども、小さな生き物がこうして安心してそばにいてくれるということは、こんなにも幸福で心安らぐものなのか、と知ったら、胸のあたりにちょっぴり切なさがわいた。
翌日、思っていたよりも早く大家さんは帰ってきた。お礼のお菓子をわたしに手渡すとすぐに、大家さんは百年振りの再会のような勢いでワン助を抱きしめていた。ワン助も百年振りの再会のような歓喜の悲鳴をあげ、大家さんの腕のなかで尻尾ふりふり、興奮冷めやらぬ様子でいた。
「ありがとうねえ、ようこちゃん。本当に助かったわあ」
大家さんにいたく感謝され、わたしも「いえいえ」と言ったものの、心のなかではワン助と離れるのがひどく淋しかった。けれど相思相愛のふたりを見ていると、ほっとするような安心感も胸にわいてきて、わたしはふたりが仲睦まじく自分たちの部屋に入るのをそっと見届けてから、自分の部屋に戻った。
もう夕方近い時刻であったが、昨日の続きのおやつをしようと、いちごの羊羹を皿にのせ、熱い緑茶とともにいただいてみた。ほんのりと甘い、いちごの風味が口のなかに広がっておいしい。黒文字で薄く切り取りながらその味わいに感じ入っていると、遠くでワン助の「わん!」という元気な声が聞こえてきた。きっと今頃、大家さんに存分に甘えているのだろう。あるいは大家さんから存分に甘えられているのかもしれない。そんな姿を想像したら、思わず、ふふふ、と笑いがこみあげてきた。
それからわたしは居住まいを正し、またいつものようにひとり静かに庭を眺めながら、自分への慰労を込めたご褒美である羊羹をゆっくりと味わった。
静寂に身を委ね、口にのこる微かな甘みを探るひとときは、得も言われぬ甘美な時間だ。
犬も去り、部屋に活気はないけれど、庭に花咲く梅の木は、今日も優しく心和ませてくれる。
(了)
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