小説『いつまでもママ』
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「これからばあばの家に行くけど、一緒に行く?」
高校が試験休み中で、することもなく家のソファでごろごろしている娘に訊くと、娘はすぐに「行く」とだけ答えて身支度を整えた。
実家は、うちからバスで十分ほどのところにある。母と私と、これまた実家のすぐそばに住んでいる姉との三人でお茶会を定期的に開くのが、ここ数年のあいだ続いている私たちの密やかな愉しみで、その際のおやつは、私と姉が交代で用意することになっている。
今回の担当は私だ。おやつにはドーナツを用意した。用意した、といっても姉のように毎回手作りしてくる器用さは持ち合わせていないので、私はいつも市販のお菓子を購入していく。今回購入したドーナツは素朴な見た目のケーキドーナツで、母も姉もきっと、懐かしく感じるだろうと思ったのだ。
「いらっしゃい、みのりちゃん。久しぶりねえ。また背が伸びたんじゃない?」
実家に着くと、先に姉が来ていた。玄関で顔をつきあわせるなり姉に身長のことを言われ、「そっかなあ」と娘ははにかんでいたけれど、本人はこれ以上背が高くなるのが嫌みたいだから、内心はたぶん、あまり嬉しくはないだろう。
居間につながる扉を開けると、年季の入った卓袱台の前で、背中をまるめた母が足を崩してテレビを観ていた。いらっしゃい、と母は視線をこちらに向けるなり、「なあに、みのりは学校、ずる休みでもしたの?」と不思議そうな顔でたずねるものだから、娘はすぐに、「ちがうよー。今日は学校が休みなんだよー。試験休みだからねっ」と跳ねるような足取りで母のそばへととんでいき、
「今日のおやつはドーナツだって」
そう言って、卓袱台のうえにドーナツの入っている袋をぽんと置いた。
「あらまあ、それはいいこと」母の顔が嬉しそうにほころぶ。
「じゃあ、早速お茶の準備をしましょうね。みのりちゃんは何飲む?ジュースあったかな」
台所に行き、姉が冷蔵庫のとびらを開ける。私も台所に行って、そのとなりでおやつの用意をはじめる。
「私は珈琲でお願いします。ミルク砂糖なしで」
居間の方から大人びた口調の娘の声がして、私はつい吹き出してしまう。最近、娘はブラック珈琲にはまっているらしい。ちょっと前まではミルクなしの珈琲なんて苦いと顔をしかめていたのに、いったいどこで珈琲のおいしさを知ったのやら。
「あら、大人ねえ。珈琲ね、はいはい。私たちはじゃあ、いつもどおりね」
と言いながら姉は、戸棚から朱色の薔薇が描かれた華奢なティーカップ三客と、青色の薔薇が描かれた珈琲カップ一客を取りだす。どれも、むかしからこの家にあるものだ。ティーポットにリーフを入れて、珈琲カップにはドリップバッグをセットして、それぞれにゆっくりと熱い湯を注いでから、卓袱台へ運ぶ。
「じゃあ、いただきましょうか」
母の号令でお茶会は始まった。といっても、かしこまったものでも何でもなく、ただのおやつの時間の始まり、ということである。卓袱台の中央には今日のお茶会の主役であるケーキドーナツがどんと大皿に盛られてある。
「懐かしいわね、こういうドーナツ」
姉が最初に手を伸ばし、一口かじる。油で揚げられた昔懐かしい雰囲気のドーナツには、粉砂糖がたっぷりまぶされてあって、生地もふんわりではなくぎゅっと詰まっていて、ほんのり甘いミルクの感じがする。
「おいしいね、やっぱり」
私が言うと、姉も「おいしいよね」と言ってもぐもぐ食べる。
「ママはどう?」と訊くと、母も嬉しそうに頬張りながらうなずいてみせた。
急に娘が笑いだす。どうしたのかと訊くと、「ママたち、なんだか子供みたいだよ」と言ってけらけら笑う。
「なんだか、すごおく幸せそう。ママも、おばさんも、ばあばも」
箸が転んでもおかしい年頃とはよく言うけれど、娘も例外に漏れず、最近はなんでもかんでもよく笑う。私たちのドーナツを食らう姿がそんなにおかしく映るのか、「ウケる」と言って娘は目尻に浮かぶ涙を指先で拭っている。
たしかにでも、このドーナツを食べていると、子供の頃を思い出す。子供の頃、おやつの時間になるとよく、母と姉と私の三人でこうして卓袱台を囲みながら近所の洋菓子店のケーキドーナツを食べていた。あのとき合わせていた飲み物はいつも牛乳で、ドーナツを小さくちぎっては牛乳にぽちゃりと浸して食べていたっけ。
「本当よね。こうやってドーナツをかじっていると、子供の頃に戻ったような気がしちゃう。三十年前?四十年前?ああ、時間が経ちすぎちゃって恐ろしいけど、昔はよくこうやって三人でおやつをしていたよね。懐かしい」
姉も同じことを思い出していたようで、そんなことを話しだす。
「あのときは牛乳を飲みながらドーナツを食べるのが定番でね。じゅわあっと油の染みたドーナツと合うのよ、これがまた。でもさ、このドーナツはそんなに油っぽくないのね。ちょうどいいしっとり具合で、昔風でも、やっぱり進化しているのかしら」
たしかに姉が言うように、自分が昔食べていたドーナツの方が油の匂いとかそういったものが口に残ったような気もするけれど、それは時代のせいだけではなく、たんにお店の製法や材料によるものもあるかもしれない。
「ほら、あかり。アルバムをちょっと持ってきてちょうだい。黄色い花柄のね」
急に思い立ったように母に言われ、私は寝室に行き、収納棚からアルバムを一冊取り出して戻ってくる。棚のなかには何冊ものアルバムが雑多に収納されているけれど、どのアルバムがどこにあるのかすぐに探り当てることができるのは、お茶会の最中によく、母がアルバムを持ってくるようリクエストするからだ。しかも大抵はこの黄色い花柄のアルバムで、そこには私と姉の、幼少時代の思い出がたっぷり詰まっている。
「ほら、みのり、見てごらん」
アルバムを受け取ると、母はページをぱらっと開いて娘に差し出した。
「わあ、これママ?こっちおばさん?ばあば、超若いね」
受け取ったアルバムをのぞきこむようにして、娘は興味津々の様子でいる。前にも同じアルバムを見せたような気もするけれど、娘はいつでも新鮮な反応を返してくれる。
「あ、これ、みんなでドーナツ食べてるよ」
私も姉も近づいてのぞく。今使っているこの卓袱台と同じ卓袱台を囲みながら、母と姉と私の三人でドーナツを食べている写真があった。色褪せて、すこし斜めに貼られてある写真の下には、『ひかり十才、あかり七才』と小さなメモが添えられてある。
「本当だあ、みんな牛乳飲んでる!」
娘が笑い、そんな娘の姿を嬉しそうに母が見つめている。
「みのりも牛乳飲みながらドーナツ食べてみる?」
訊くと、「いい。みのりは珈琲がいいの」と娘は妙なこだわりを主張して首を横に振る。
「なんだか、このママ、若いねえ」
何度も見ているはずの写真なのに、思わず姉が声を漏らす。写真のなかにいる母はウエストの締まった洒落たデザインのノースリーブワンピースを着ていて、髪の毛にはくるりんとパーマがかけられていて、今の自分たちよりもだいぶ若く、溌剌とした笑顔をみせている。
「何度見ても美人だわね」
冗談めかして母が言って、
「うん、美人美人。ばあばは今も美人だもん」
娘がけらけらと笑う。そんな娘の反応に母が嬉しそうに微笑んでいると、
「あ、これ、甘えん坊だあ」
さらにページをめくり、娘が一枚の写真を指さした。幼い頃の私がうしろから母の肩に両腕をまわし、背中にべったりと亀の甲羅のようにはりついている写真だった。
「あかりは甘えん坊だったからね」
姉に言われ、無論、私はそれに反論できない。子供の頃、私はいつでも「ママ、ママ」と何かにつけては母に甘え、何かあればすぐに母を頼り、堂々と、甘えん坊の見本のような存在でいた。今だって、不安にかられたらすぐに母に電話をかけてしまう。とりあえず母の口から「大丈夫」という言葉が聞けたなら、実際に大丈夫かどうかは棚のうえに置いてしまって、なんとなく安心しまうのだから、母の力はすごいな、と思うのだった。
「みのり、ドーナツおいしい?」
アルバムを眺めながらもぐもぐしている娘に母が尋ねると、娘はもぐもぐしたままうなずき、「おいしいよー。素朴な感じー」と言ってすぐに「あっ」と何か思い出したように傍らに置いてあったバッグのなかからスマートフォンを取りだすと、「じゃん!」と印籠を向けるようにして母に画面を見せた。
「これね、みのりがこの前食べたドーナツ。すごいカラフルでしょ。最近ね、こういうのばっかり食べてたから、逆にこういう素朴なドーナツって新鮮な感じがするんだー」
あらまあ派手なドーナツねえ、と母は画面に顔を近づけながら間延びした調子で言う。
ピンク色のストロベリーチョコをコーティングしたドーナツは、つい先日、娘が高校のお友達と遊びにいったときに食べたものらしい。ニューヨーク発のドーナツなんだよっ、と娘は得意気にそれを母に見せると、またササッと指を動かして画面を閉じた。
「なんだかみのりがいると、お茶会が華やぐねえ」
ドーナツを食べ終えて、紅茶を飲みながら母が目を細める。
「ほんと、若い子がいると、それだけで部屋が明るくなる感じがするわよね。うちなんてほら、男だらけだから、みのりちゃん見ていると女の子っていいわあって思うわ。一緒にお出掛けもできるしね」
姉も応じる。姉には子供が二人いるけれど、二人とも男の子でもう成人しているから、そうそう一緒に出掛けることはないようだ。でも、二人とも心根優しい男の子たちだから、姉が望めばすぐにでも一緒にお出掛けしてくれそうだけれど。
「だったらみのりね、またお茶会に参加できるときには、参加してあげるよっ」
みんなの称賛に調子に乗った娘が言って、思わずとなりで私は肩をすくめてしまう。気まぐれ娘の、いつもの気まぐれ発言だからだ。
「じいじも今頃、天国でお茶会してるかなあ?」
ふいに、娘の視線が斜めうえを向く。鴨居に立てかけてある遺影。そのなかにいる父が、私たちにそっと微笑みかけている。
「まあ、こっちにいるときは毎日忙しかったから、今頃天国でお兄さんたちとお茶でも飲んで、のんびりしているでしょうよ」
母が答え、「そうだよねえ。今頃じいじもきっと、お茶してるよねえ」と娘もうなずく。
父が他界したのは、今から三年前のことだ。急な病に倒れてから旅立つまでは早く、母がこの家にひとり暮らすようになってからは私も姉も頻繁に実家に帰るようになった。定期的にこのお茶会が行われるようになったのもそれがきっかけのようなもので、とくに示し合せたわけではないけれど、私も姉も、ごく自然な心の動きの反映で、母とまた昔のように卓袱台を囲みたいと思ったのだった。
「でもさあ、実際のところ、死んじゃったらどうなるのかなあ」
唐突に娘が真面目な顔でつぶやき、姉が笑う。
「いやねえ、みのりちゃんってば。まだ若いんだから、今からそんなこと考えなくても大丈夫よ」
「だけど、若くても寿命なんて誰にも分からないし。どうなるのかなあって、じいじがいなくなってからときどき思うんだよねえ」
娘は幼い子供のように首をかしげてみせる。
「いやねえ、この子ってば、変なこと考えちゃって」
と私も一応笑ってはみるものの、娘が抱く気持ちはよく分かる。ときどきわきあがる微かな不安。それはきっと、今まで外側にあると思っていたものが、自分の内側にすでにあることに気がついてしまったから。生きていれば誰でも必ず辿り着く自然な場所の存在を、図らずも意識してしまったから。
わさわさと、私の胸のあたりが騒ぎはじめたそのとき、
「あのね、みのり。死んだらね、この世があの世になって、あの世がこの世になるだけよ」
母が言った。
「だから大丈夫なのよ」と、母はまたお得意の根拠のない大丈夫を言って、 娘にそっと微笑みかけた。
「なあにそれ」とすぐに姉が肩をすくめ、「でもまあ、ママが大丈夫って言うならきっと大丈夫ね、ってなにが大丈夫なのかもよく分からないけど」と呆れたように笑い、「そうね、まあ、みんな大丈夫よ。いつかは分かるから!」私もそんな相槌うつと、娘はひとり眉根を寄せて、「変なのー。わたしが聞きたいのは、そういうことじゃないんだけどなあ」と不満そうにしながらも渋々承知したのか、食べかけのドーナツに黙ったままかじりついた。
「とりあえず今はおいしいもの食べて、おいしいって思える気持ちがあれば大丈夫よ」
母は娘の疑問をさらりと受け流すと、ほらほら、まだドーナツあるから、みのりも食べて、あかりも食べて、と残りのドーナツを勝手に私と娘の取り皿にのせてしまった。五個入りの袋を二つ買ってきたわけだから、計十個のドーナツ。なにも今日まとめてすべてを食べきらなくてもよかったのに、ついつい手が伸びて、結局、私と娘で残りのドーナツすべてを食べきってしまった。
それからしばらくのあいだ、紅茶や珈琲のおかわりをしながら四人でお喋りを続け、気がつけば陽が傾いて、もう夕刻だ。
帰り支度中、娘が手洗いに行っているあいだ、いつもしているように母の背中にまわって肩を揉んだ。柔らかくて、ふにゃんとしていて、なんだかすこし、小さくなったみたい。いや、小さくなったなんて、嫌な言い方していると思って、すぐに自分のなかで浮かんだ言葉を打ち消した。
「なんだか、これから色んなこと、大丈夫かなあ」
肩を揉みながらそんな言葉が急にぽつりとこぼれ落ちて、「大丈夫よ」と何のことかも訊かないまま母が答える。そんなやりとりを見ていた姉が「適当ねえ」と向かい側で笑い、私は母の肩を優しく揉みながら、そのぬくもりを手の平に感じている。
「…ママ」
急にばかみたいに母が恋しくなって、思わずうしろから両腕をまわしてぎゅっと母を抱きしめた。さっき娘が口にした疑問のせいかもしれないし、たんに最近、娘のこれから始まる受験勉強のことやらなんやらで、心が疲れていたせいかもしれない。
「長生きしてよね」
そう言うと母はまた、「大丈夫よ」と言って、窮屈そうに抱かれた隙間から皮膚の薄くなった手をさしだして、ぽんぽんと労わるように私の腕を叩いた。
「あー、甘えん坊がいる!」
お手洗いから戻ってきた娘が可笑しそうに声をあげる。
「みのりのママは甘えん坊で困ったものねえ」
私に抱きつかれたままの状態で母が言う。「みのり、この子をよろしくね」、とも。
「大丈夫だよーっ。みのりは案外、ママよりしっかりしてるからね」
娘が堂々と胸を張り、あらら頼もしいこと、と姉が笑った。そんなみんなの声をどこか遠くで聞きながら、私はしばらくのあいだ写真のなかにいたあの頃のように、母の背中にぴったりとはりついたまま、母の鼓動が奏でる規則正しいリズムにじっと耳を傾けていた。
「じゃあ、また次のお茶会でね」
実家をあとにするとき、母は玄関まで見送りには来ず、居間の指定席に座ったままゆらゆらと手を振った。
「みのりも良かったら、また一緒においで」
そう言って母はまた、風に揺れる野花みたいに、ゆらゆらっと笑顔で手を振った。
「みのりちゃんもまた本当に参加してね」
姉にもそう言われ、娘は嬉しそうにうなずいていた。
帰りのバスは行きよりもすこし混んでいた。けれど、かろうじて私と娘は二人掛け席に並んで座ることができた。バスに揺られ、窓からの見慣れた景色を眺めていく。団地、住宅、公園、学校、遠く桃色に染まるちぎれ雲―。
喋り疲れたのか、あるいは私たちのとまらないお喋りを聞くのに疲れたのか、途中、娘はふわあっと大きなあくびをした。
「眠い?」
「うん、眠い。だって、もうお腹いっぱいだもん」
娘はそう言って、お腹のあたりをさすってみせる。
「でもさあ、あのドーナツおいしかったから、また食べたいかも。今度は牛乳でも合わせてみよっかなあ」
「あらあらお嬢さん、珈琲じゃなくてもいいの?」
わざと意地悪して訊いてみると、娘は「もうっ」と膨れ面をしながら片肘で私の脇腹を小突いてみせた。
「ねえ、ママ」
眠たそうな目をこすりながら娘が私の方を向いた。
「ばあばってさ、みのりにとってはばあばなんだけどさ、ママにとってはママなんだよね。いつまでもずーっと、ママのママでいるんだね」
娘はそう言うとちょっと照れたように鼻の頭をこすり、「当たり前のことなんだけどさ、なんだか今日ね、そんなこと思っちゃったよ」と言ってすぐにまたふわあっと大きなあくびを一つした。
「ママだって、これからもずーっと、みのりのママでいるわよ」
言うと娘は、「えー、そうなのお」と苦虫を噛み潰したような顏をみせたあといたずらっ子みたいに笑い、「っていうか、そんなの当たり前じゃん。ママがずっとみのりのママでいてくれなくっちゃ困るでしょっ」
そう言って、私の左肩に体重を預けてくる。
その重みとぬくもりを感じながら、ふと、母がいつまでも私のママでいてくれること、私がいつまでもみのりのママでいられること、そしてそれを当たり前に思えること、思われること、それらすべてのことが今日食べた素朴なドーナツのように、甘く優しい幸福感となって、胸に溢れた。
(了)
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Daisyのケーキドーナツについてのエッセイはこちらから♪
お読みいただきありがとうございます。