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小説『のりこさんとみつこさん』

おいしいものから生まれる小さなストーリー」は、自分の好きなおいしいものから想像したストーリーを綴っていく小説集です。今回のストーリーの種となるおいしいものは、豊島屋の「鳩サブレ―」です。(約1.2万字)

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 のりこさんは今日、半休をとって、みつこさんとふたりで鎌倉にやってきました。

 日帰り旅行というほど大仰なものではなく、ただふらりと目的の場所にいって、目的のものを食べて、目的のものを買ったら帰りましょう、というささやかな、いうならば、ほんの思いつきのお出掛けといったところでしょうか。

 本当のところ、のりこさんは今日、ひとりで鎌倉に来るつもりでしたが、うっかりおとといの昼時、みつこさんにそれを話したら、「わたしも行く」と参加表明され、まあ、みつこさんならいいかな、とのりこさんは承諾して、今しがた、ふたりは鎌倉駅の改札を出たのでした。

「さっそく、買いにいく?」

 みつこさんが聞きます。

「いや、まずは先にお茶をしない?」

 のりこさんが言うと、みつこさんはすぐに「さんせーい」とまんまるな笑顔で片手を挙げ、肩にかけたシャム猫の描かれたトートバッグのなかからハンドタオルをとり出すと、首筋に光る汗をごしごしとふき、若宮大路へ向けて先だって歩き出しました。

 七月初旬のまだ梅雨の終わらない鎌倉は、蒸し暑く、今にも泣きだしそうな空には灰色の重たそうな雲が折り重なるように広がっていました。けれど、予報によれば、雨はまだ降らなそうです。が、油断はできないのでのりこさんは折り畳み傘をリュックサックに入れてきました。レモン柄の、最近買ったばかりのお気に入りです。

「ねえ、今日って、平日でしょ。それなのに、このお天気なのに、人、多いわねー」

 のりこさんの半歩前を歩くみつこさんが振り返り大声で言います。

「ほんとよねー。最近じゃあ、外国からの旅行客の人がたくさん来ているみたいだからねー」

 と、のりこさんが言う前方から、欧米からの旅行客らしき人たちがわらわらとやってきて、ふたりの傍らを通り過ぎていきました。ノースリーブやビーチサンダルといった軽装をした彼らの手元には一様に黄色い買い物袋がぶらさがっています。これからまさに、のりこさんたちが行こうとしているお店の買い物袋です。

「ほら、着いたわよ」

 みつこさんが立ちどまりました。通りに面した大きな白い建物には暖簾に達筆な文字で「豊島屋」とあり、外壁には堂々と「鳩サブレ―」とあります。

「買うのはここだけど、お茶するところはそこの小道を行くのよ」

 今度はのりこさんが先に立って、みつこさんを案内しました。鳩サブレ―でおなじみの豊島屋本店の建物横の脇道を通りぬけると、裏路地に出て、そこには同じく豊島屋が運営する「八十小路はとこうじ」という甘味処があるのです。

 早速、ふたりは店内に入り、窓に面した二人掛け席のひとつに座りました。お互いに譲り合って、上座にあたるベンチシート側には結局のりこさんが腰掛けました。そしてふたりそろって、本わらび餅を注文しました。品書きにはほかにも、あんみつとか、くずきりとか、その他いろいろなものがありましたが、みつこさんものりこさんも、いの一番に食べたいと思ったのがわらび餅だったのです。ふたりはちょっと、似ているのです。

「ねえ、これ、なんだっけ?」

 みつこさんがタオルで額の汗をふきふき、聞きました。その視線の先には、小さな花器がありました。

「ヒペリカムじゃない?たぶん」

 のりこさんはこたえました。各テーブルにはそれぞれ小さな花器が置かれてあり、のりこさんたちの席には赤い実をつけたそのヒペリカムが生けられていました。他のテーブル席には、スプレーカーネーションやスターチスが生けられてあり、それらのテーブル席にはカップルや家族連れやおひとりさまの客がいて、八つ時の店内はほどよく賑わっていました。が、うるさくはありません。みなさん、控えめにおしゃべりをしていて、BGMのない店内には空調の鳴らすゴーゴーという音だけが目立って響いていました。ふたりは、いつものように、他愛のないおしゃべりをして、わらび餅を待つことにします。みつこさんは、今日対応した教授の口癖について話をし、のりこさんは昨日対応した秘書との終わらないメールのやりとりについて身振り手振り話をしました。

 というのも、ふたりは今、同じ大学で働いています。所属する学部は違いますが、同じ総務の仕事をしています。年齢も同じ年で、三十六歳。ひとり暮らし。彼氏なし。甘味好きで、動物が好き。団体行動が苦手で性格も服装も地味(でもだからこそ小物類に関しては柄物を好む)、と、共通項の多いふたりは出会ったその日から不思議と気が合いました。同じ学部にいたときには大概一緒にランチをしていましたが、のりこさんが異動してからは、週に二、三回、タイミングが合えば一緒にランチをしています。天気の良い日はキャンパス内の木陰のベンチで。天気の悪い日は事務室の空きスペースで。今日もお昼は一緒で、鎌倉へも一緒にやってきましたが、その道中、ふたりは会話をしていません。なぜなら、電車内でのりこさんは読書をしていて、みつこさんは音楽を聴いていたからです。この、互いを気にせずマイペースでいられる感じを、のりこさんはとても気に入っています。むろん、それはみつこさんも同じですが。

「あ、そういえば」

 とのりこさんが言いかけたところで、ちょうどわらび餅が運ばれてきました。みつこさんはのりこさんの発した声に気づいていなかったようなので、のりこさんはそのまま続きを話すことなく、ふたりは早速、わらび餅を食べはじめました。

 黄な粉の香ばしい匂いのする本わらび餅はほんのり温かく、驚くほど柔らかくとろっとろで、食べるとたちまち口のなかがわらび餅でいっぱいになりました。

「な、なんか、いつ呑み込んだらいいのか分からないわ」

 みつこさんが笑い、

「ほ、ほんとよね。でも、お、おいしいわ」

 のりこさんも黄な粉でむせないよう気をつけながら、ふたりはすぐさまお皿に盛られていた六切れのわらび餅を平らげました。食後はふたりで、ほっとひと息つきながらほうじ茶をすすります。それからふたりそろって、黙って、窓の外を眺めました。いぜん、空はくもり空で、今にも雨が降りだしそうな、でも降らないような、曖昧な空模様が広がっています。

🕊

 のりこさんは、今日、鎌倉へきた理由の本当のところを、まだみつこさんに話していません。

 みつこさんには「鳩三郎が欲しいから鎌倉へ行くんだ」と、それだけを伝えていました。ちなみに鳩三郎とは、本店でしか買えないグッズで、鳩サブレ―のかたちをした根付のことです。

 その鳩三郎が欲しいというのは嘘ではありません。が、なぜ、その鳩三郎が急に欲しくなったかという点です。そのことについて、のりこさんはあえてみつこさんに詳しく話すつもりはありませんでした。

 話は一週間前にさかのぼります。

 のりこさんは、中学校の同窓会に行きました。本当は、同窓会に行く気なんてさらさらなかったのですが、たまたま立ち寄ったデパ地下で幹事をつとめる同級生に声を掛けられ、とっさに断る理由が思いつかず、そしてたまたまその日みていた占いで「日頃しないことにチャレンジするのが開運の道」とあったのを思い出して、あとになれば魔が差したとしか言いようないのですが、久方ぶりにのりこさんは同窓会に行くことを決めたのでした。

 そして緊張して参加した同窓会の会場(ホテルのレストラン)で、のりこさんはひとりぼっちでした。いいえ、実際には何人かには声を掛けられたのです。が、会話は弾まず、気がつけばのりこさんはひとり、ビュッフェの料理をとってきては端っこ席で黙々と食べていました。ひとりぼっちだな、と思いましたが、思えば当時だって、そんなものだったのです。

 中学校のクラスで、のりこさんはいつも浮いていました。むろん、外からみたら、のりこさんには友人もいたし、目立つこともなく平穏に過ごしていましたから、浮いているようにはみえなかったかもしれません。でも、のりこさんは自分が浮いているように感じていました。こころのなかではいつも馴染めない感覚がしていました。クラスメイトはみんな仲良しで、団結していて、でもそれがかえって、のりこさんの目には友達ごっこしているように映ったのです。もちろん、実際には彼らはごっこではなく本当に友達だったのでしょうが、のりこさんにとっては窮屈なものにみえていました。スニーカー。クラスメイトをみるとき、のりこさんの頭には不思議と一足のスニーカーが浮かびます。スニーカーの紐がきゅっと結ばれる。ほどけないように、きゅっと、きつく―。のりこさんはだから、輪のなかにいてもいつも外から遠目に眺めるようにひとりぼっちでした。孤独だな、とも思いました。そして、大人になった今でも、こうして当時のクラスメイトを前に、同じ状態になっている自分がいることにちょっとびっくりしました。が、むかしとちがって孤独に辛さは感じません。それは、のりこさんがあえて選んでそうしている、と歳を重ねるうちに気がついたからです。そんなことをぼんやり思いながら、マカロニサラダを食べていると、会場の奥でどっと沸く声が聞こえました。

 気になって、おかわりついでに覗きにいくと、「なつかしいなあ」「まだ持ってんのー」と笑い合っている人垣の中心にのりこさんの初恋だった人がいました。少年のようなあどけない笑顔を浮かべるその人が自分の財布を取り出し、みんなに向かって大っぴらにみせていたのは、薄汚れた鳩三郎の根付でした。あっ、とのりこさんは思いました。そして思い出しました。

 中学三年生の、あれは五月だったでしょうか。のりこさんたちは遠足で鎌倉に行きました。基本、班行動で、のりこさんはその初恋の人を含む八人グループのなかに割り振られました(男女四人ずつ)。そして、江ノ電に乗って鎌倉大仏をみたり、戻って鶴岡八幡宮や小町通りなどを散策したりし、最後にみんなで立ち寄ったのは豊島屋本店でした。もちろん、お目当ては鳩サブレ―。買わない子はいないのではないかと思うほど、気がつけば、のりこさんたち以外の班の子たちもここに集まり、みんなで群がるようにして鳩サブレ―を買っていました。そして当時、販売が始まったばかりの鳩三郎に目をつけたのが、初恋の彼だったのです。クラスの中心人物でもあった彼が、「これ、思い出に買おうぜ!友情のしるしー!」と呼びかけ、「かわいい」「おもしろい」とみんなも声をあげて、これまた群がるようにして鳩三郎を買っていきました。もちろん、のりこさんだって、鳩三郎をみたとき、「かわいい!」と思って、「欲しい!」と思ったのです。けれど、のりこさんは買いませんでした。いえ、買えませんでした。こわかったのです。俺も買う、なら俺も。あたしも買う、ならあたしも。そうやって右倣うように鳩三郎を買っていくクラスメイトをみていたら、のりこさんの頭のなかにまた、一足のスニーカーが浮かびました。きゅっと紐をきつく結ばれたスニーカー。その紐が間違ってほどけないように、さらに二重にきゅっと固結びされていく―。

 結局、のりこさんは、鳩サブレ―だけを買って、家に帰りました。そしてあとになって、初恋の彼とおそろいの鳩三郎を持つチャンスをみすみす逃したことを、ちょっと後悔しました。そして輪に入れなかった自分のことを、ほんのすこし、責めました。でも、そんなときでも、鳩サブレ―はおいしくって、その素朴な甘さにのりこさんのハートは癒されたのです。

 ちなみに、恋に奥手なのりこさんはその初恋の彼に告白することなく卒業を迎え、その初恋の彼は、その後、遠足のとき同じ班にいた女子と大学生のころに再会し、結ばれ、七年前に結婚したそうです。

 そんな、当時の甘酸っぱくも苦い記憶を鳩三郎きっかけで思い出し、のりこさんはすこしセンチメンタルな気持ちになりました。そして思ったのです。

 やっぱり、わたし、鳩三郎欲しいなあ、って。

🕊

「ねえ、いまって、こんなにグッズあるのねえ」

 みつこさんがやや興奮気味にグッズコーナーに駆け寄ります。甘味処を出て、豊島屋本店に入ったのりこさんたちは脇目もふらず、フロアの一角に設けられてあるグッズコーナーに向かいました。

 むかしはなかった定規や指サックやマグネットといったグッズがあって、のりこさんも興味津々、それらをみてまわっていると、

「これ、かわいいじゃなーい。のりこさん、色違いで買っちゃう?」

 みつこさんが手に掲げていたのは鳩サブレ―模様のランチバッグでした。黄色と青色とあり、みつこさんとならお揃いでもいいかな、と一瞬思ったのですが、のりこさんの財布の紐は固いのです。

「だめ。今日は鳩三郎と鳩サブレ―だけ買っていくの」 

 とのりこさんは固辞しました。

「あら、そーお」

 と言って、みつこさんは手に持っていたランチバッグを棚に戻し、そして今日の目的、鳩三郎が売られているコーナーへふたりで向かいます。

「あら、かわいらしい」

 みつこさんが弾んだ声でみつめた先にはビニール袋で包装された鳩三郎が、トレイのなか、どっさりとありました。のりこさんも同じことを思い、同時に胸にちょっぴり切なさがよみがえります。

「あ、そういえば」 

 さきほど甘味処で言いかけたことをのりこさんは思い出しました。

「みつこさんも中学生のころ、鎌倉に遠足しにきたことある?」

 聞くとみつこさんは「ああ」とうなずき、

「あるある。中学生のときにね。そうそう、ここで鳩サブレ―買ったのよねえ。懐かしい。でも、こんな根付売られていたかな。もう忘れちゃったわあ」

 とすっとぼけた表情を浮かべ、「懐かしいわあ。若かったなあ。でも、あの頃には戻りたくもないのよねえ」と言うので、戻りたくないの?と聞くと、「そう、戻りたくないの。いまの方がいい」ときっぱり言うので、なんとなく察したのりこさんは、あえてそれ以上は聞きませんでした。

「それよりさ、かわいいから、わたしもこれ、買おっかな」

 みつこさんは鳩三郎をひとつ手にとりました。もちろん、のりこさんも今日のいちばんの目的である鳩三郎をひとつ手にとり、ふたりして四枚入りの鳩サブレ―と併せて購入しました。

「あら、雨」

 会計を済ませて店を出ようとすると、ぽつりぽつりと雨が降りだしてきたところでした。予報では夜から本降りでしたが、ちょっと早く雨が降りだしたようです。

「どうする?」

「どうする?」

 と顔を見合わせるのりこさんとみつこさん。

「でもまあ、せっかく鎌倉まで来たし、まだそんなに雨脚も強くもないから、鶴岡八幡宮にだけお参りに行って、それから帰る?」

 とのりこさんが提案すると、

「さんせーい」

 とみつこさんはまんまるな笑顔で片手を挙げ、肩にかけていたトートバッグから折り畳み傘を取り出すと、ぶほんと勢いよく空に向かって開きました。紺地に鮮やかなオレンジの柄が映える、みつこさんが最近買ったばかりの折り畳み傘です。あら、やだ、とのりこさんは思いました。みつこさんのそれは、のりこさんの傘と柄違いの傘だったからです。その偶然の一致におもしろさを感じながら、のりこさんも買ったばかりの水色の地にレモンの柄が映える傘をさすと、あら、やだ、とみつこさんは声に出していい、それからふたりしてくすくす笑いあいました。

 雨脚がだんだんと強くなってくるなか、ふたりは若宮大路の中央、段葛と呼ばれる車道より一段高く作られた参道のうえを歩いていきます。道の両側には桜並木があり、春のころに来れば美しい桜の花のアーチとなるのでしょうが、今はどれもすっかり緑の葉だらけで、雨に打たれたそれらは、若干、げんなりしてみえました。傘を叩くバチバチとした雨音を聞きながら、ふたりは自然と無口に、早足になります。のりこさんはちょっと、残念に思っていました。天気がよければ、あるいはせめてくもりならば、境内にいるたくさんの鳩をみられるだろうと思っていたからです。鶴岡八幡宮のシンボルといえば鳩。だからみたかったというのもありますが、単純に動物が好き、鳩も好きなのりこさんは、マイペースに散歩する鳩をみると癒されるので、境内で暮らす鳩をみたかったのです。けれど今日それは叶わなそうだなあ、とすこしがっくりしながら段葛を抜けると、朱色の大きな鳥居が目の前にどんとあらわれました。

「あ」と思ったのは、雨のなか、いないと思っていた鳩たちが、その鳥居のうえに何羽も羽根を休めてとまっていたからです。雨宿りをするでもなく、ただ静かに身を寄せ合って、雨に打たれながらー。のりこさんはちょっと感動して、みつこさんに言おうと思いましたが、みつこさんは額から汗をだらだら流しながら必死の形相になっていたので、のりこさんはなにも言わず、ふたりで若干駆け足気味に本宮めがけて歩いていきました。

🕊

「よかったわねえ」

 みつこさんが汗をふきふき、満面の笑顔をみせます。

「ほんと、よかったあ」

 のりこさんも満足な気持ちでつぶやきました。

 神様のはからいなのか、ありがたいことに、ふたりが本宮のある高台に向けて六十一段の石段を上がっていく途中に雨が落ち着き、本殿についたときには傘を畳み、二礼二拍手一礼、ふたりは落ち着いてお参りをすることができました。

「ねえ、みて。知ってる?ここに鳩がいるのよ」

 みつこさんが見上げ、つられるようにのりこさんも見上げると、そこには朱塗りの楼門に「八幡宮」の文字が中央に掲げられていました。が、よくみてみると、八の字が、二羽の鳩のかたちになっています。

「ああ、それなら知っているわよ。たしか、鳩サブレ―が鳩のかたちになったのもここが由来なのよね。お店の初代がここを敬っていてとかなんとかって」

 のりこさんが得意げに知識を披露すると、みつこさんは「ほお、それは知らなかった。のりこさんってば物知りね」と感心するので「誰かに聞きがじっただけよ」とのりこさんは笑いました。

「なんだか懐かしいなあ。ずっと来ていなかったから」

 灰色の雲に覆われた鎌倉の街をみおろしながら、みつこさんがひとりごとのように言いました。

「ちょっと昔の記憶、よみがえるわね」

 と、すこし寂しげにもみえる表情でぽつんとつぶやくと、なにに対してか、ひとりうんうんとうなずき、それからのりこさんの方に向き直ると、「じゃ、帰ろっか」といつものまんまるの笑顔をみせました。

🕊

 水はけの悪い石段をふたりでおっかなびっくり降りて、再び参道を歩いて境内を出ようというとき、ふと左手をみると、

「なにあれ?すごい」

 蓮の葉がゆたかに茂っている光景がのりこさんの目に飛び込んできました。行きは雨で急いでいたせいかまるで気がつけませんでしたが、気がつけなかったのが信じられないほどに、さみどり色の蓮の葉が池を埋め尽くすように茂っていました。鶴岡八幡宮の敷地内にある、源平池の蓮の花です。

 引き寄せられるように、のりこさんとみつこさんはその源平池へ向かいました。

 池のなかには島があり、そこには弁財天さまを祀った神社があるようで、他にも幾人かの観光客がそこを目指し歩いていました。のりこさんとみつこさんは、その神社のある島にかかる橋のうえで立ち止まり、蓮の葉に覆いつくされた池を眺めました。見渡す限り、見事に蓮の葉だらけの池です。池の水面から茎がすうっと伸びて、その先に開いた青々としたまあるい葉っぱが、池一面を覆うようにして広がっています。白やピンクの花を咲かせているものもちらほらあります。かっぱがいそうだな、とみつこさんは思い、のりこさんはなぜか種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」という俳句を頭に浮かべました。もちろん、山ではなく、蓮の葉が延々広がっていたわけですが。

 そんな、雨に濡れ、幻想的にもみえる光景にふたりそろってしばしみとれていると、

「ねえ、変なこと、ちょっとだけ話してもいい?」

 みつこさんが急に口を開きました。いいよ、とのりこさんが返事をすると、みつこさんは蓮の葉をじっと見据えたまま、

「たとえばね、夏に会いたいってだれかに言われて、でも、自分が夏に会いたくないなら、わたしは夏ではなくて、秋に会おうって言うと思うの。でも、そんなに長いスパンでみていたら、その間にどちらかになにかがあって、もう会えなくなる可能性だってひょっとしたらあるかもしれないじゃない。そうしたら、それはそれで、わたしは仕方がないって思えるの。悲しくても仕方がないって思えちゃうの。でもそれって、冷たいし、思いやりないし、変なことだと思う?」

 と言いました。とつぜんの質問だな、とのりこさんは思いましたが、迷うことなくすぐにこたえました。

「わたしは、わたしだったら、冷たくないと思うし、変とも思わないわよ。時間のとらえかたは人それぞれだし、自分の気持ちを大事にしない方が、思いやりがないと思うから」

「そっか」

 みつこさんはのりこさんの言葉にほっと安心したように表情をゆるめると、

「むかしね、人にそう言われたこと、急に思い出しちゃって。こういう考えのわたしのこと、冷たいし、思いやりがないし、変だってね」

 とうっすら笑い、まあ、若かったせいもあるかもしれないけどね、と言い足しました。

「わたしは、そういうみつこさん、変じゃないと思うよ。みつこさんは冷たくないし、思いやりだってあるし。でもね、加えるならばね、それを変という人のことも、変とは思わないよ」

 のりこさんが真面目に続けて言うと、みつこさんは、ふふふと笑い、

「たしかに。わたしも変じゃないし、変っていう人もべつに変なんかじゃないのよね。急にごめんなさいね。妙な質問しちゃって。というか、わたしたぶん、のりこさんのおセンチがうつっちゃったのよ」

 と言うので、のりこさんはびっくりして、

「おセンチになってるの?わたし?」と聞くと、

「だってさっき、鳩三郎をみつけたとき、のりこさんってばそんな顔していたわよ。詳しいことは知らないけど、漏れちゃっていたのよ、おセンチが。バレバレ~」

 と言うので、のりこさんは恥ずかしくなって顔を赤くしましたが、なるほど、みつこさんにならばれても仕方ないか、とも思いました。不思議ですが、のりこさんはみつこさんの気持ちを、みつこさんはのりこさんの気持ちを、ときどき手に取るように分かるときがあるのです。理屈をこえて、ほんとうに説明しがたいのですが。

「あ、雨」

 みつこさんが空を見上げるそばからぽつりぽつりと雨粒が振ってきました。それは次第に粒から線になり、ざあざあと本降りとなり、さざなむように蓮の葉を揺らしました。

「大変」

「早く帰りましょ」

 またふたりして、オレンジ柄の、レモン柄の、折り畳み傘をぶほんと慌てて広げ、急いで駅に向かって歩きだしました。

🕊

 帰りの電車はグリーン車にしましょうよ、というのはみつこさんの案で、財布の紐の固いのりこさんとしては迷うところでしたが、急な本降りにあって服はびしょびしょ、体はへとへと、というわけで、今回はまあいいかと財布の紐をゆるめ、のりこさんたちはグリーン車に乗ることにしました。

「じゃ、わたし、前の席ね」とみつこさん。

「じゃ、わたしはうしろの席ね」とのりこさん。

 せっかくのグリーン車だし、窓からの景色を眺めてのんびりしたいわ、という互いの共通意見のもと、ふたりは横並びに座るのではなく、前後に別れ、それぞれ窓側の席に座ることにしました。この、互いに気遣うことなく、尊重し合える間柄を、のりこさんはとても気に入っています。むろん、それはみつこさんも同じですが。

「はああん、グリーン車はやっぱいいわあ。ちょっと、倒すわね」

 温泉に入ったようなみつこさんの声がして、リクライニングシートがギギギと倒れてきて、のりこさんの領域をやや狭くしました。ので、同じようにのりこさんもややリクライニングシートを倒し、そしてリュックのなかから、鳩三郎の根付をとりだし、まじまじと眺めました。

 手のひらにおさまる、ちいさなちいさな鳩三郎。

 かわいい、とのりこさんはつぶやきました。そして、やっと買えてよかったね、と中学生だったあのころの自分に向けて伝えました。シートの隙間から、みつこさんも同じようにシャム猫柄のトートバッグをあさり、鳩三郎をとりだし眺めているうしろ姿がみえます。表情はみえませんが、たぶんニヤニヤしているのが想像できて、のりこさんは可笑しくて、ぷぷっとひとりで笑ってしまいます。

 思い出のためにでもなく、友情のしるしにでもなく、ただ、のりこさんが欲しくて買った鳩三郎。そしてただ、みつこさんが欲しくて買った鳩三郎。

 そこに、かつて中学生だったのりこさんが感じたこわさはありません。そこには純粋なる喜びがあるだけです。でも、それなりに歳を重ねきたのりこさんは思います。べつに、思い出のためにだって、友情のしるしにだって、どんな意味をつけたって本当はいいのよね、と。だって、鳩三郎は、ただ、鳩三郎でしかないのだから。

 それにー。

 のりこさんは知っています。あのころ、クラスメイトみんなで友達ごっこをしていると思って遠目にみていた自分こそが、ほんとうは友達ごっこをしていたのかもしれない、と。そしてそんな自分に無言のダメ出しをして、窮屈さの紐を結んでいたのは、他ならぬ自分自身だったのかもしれない、と。でも、仕方がありません。だって、あのころのりこさんは、友達と名の付く関係に身を置かないと、孤立でしかないと思い込んでいたのですから。おおきなものに右倣えしないと、孤立してしまうと思い込んでいたのですから。

 でも、年齢を重ねるうちに、のりこさんは自分の本心をちょっとずつ大事にできるようになって、そうしてあるとき、目の前に現れたのが、みつこさんだったのです。

「ねえ、やっぱり、鳩サブレ―模様のランチバッグも買えばよかったかもお。ちょっと後悔」

 座席と座席の隙間からこちらをのぞき込むようにして、みつこさんがため息まじりに言います。

「なら、また、今度来ればいいじゃない。次のおたのしみにとっておけば?」

 のりこさんが笑って言うと、それもそうねえー、とみつこさんは間延びした口調で答えます。

 はたして、のりこさんにとって、みつこさんはどんな関係にあたるのだろうか、と、のりこさんはときどき首をひねります。友人、同僚、仲間、話し相手―、と考えたところで、まあ、どれでもいいかな、とのりこさんは思います。あえて名前をつけなくたっていい関係があるということを、そのときどきで変化していく関係があってもいいことを、のりこさんは中学生だったころの自分に教えてあげたいなと思いました。歳を重ねるほどに、自分が自分でいることを許せるほどに、気持ちは、軽く、楽になっていく。そんなことも。

 のりこさんとみつこさんは、いま、とても気楽で良好な関係を築いています。でも、だからといってのりこさんは、みつこさんに、ずっと一生仲良しでいてほしい、と切に願うようなことはしません。仮にこのさき、いろんな変化があって、みつこさんと縁がうすれて、離れ離れになるときがあったとしても、のりこさんはきっと、それを静かに、素直に、受け入れることができるだろうと思っています。それって、冷たいし、思いやりないし、変なことだと思う?と今度はのりこさんがみつこさんに聞きたい気もしましたが、みつこさんもたぶん、自分と同じ考えだろうとのりこさんは勝手ながらに思っています。そしてそんな関係は、決して冷たいのではなく、ほどよい温かさのある関係だとのりこさんは信じています。

 がさごそとなにやら前から音がして、何事かしらと思っていると、

「はい、一枚どうぞ」

 と、みつこさんが窓と座席の隙間から腕を伸ばして鳩サブレ―を一枚差し出してきました。さきほど豊島屋本店で買ったばかりの鳩サブレ―です。

「ちょっと急ぎ足で歩いてきたから疲れちゃったのかしらん。急に甘いもの食べたくなっちゃったから、早速開けちゃったわ。のりこさんにもお裾分けー。どうぞー」 

 みつこさんの弾んだ声だけが聞こえてきます。

「いいわよ。四枚入りなんだから、わたしにくれたらすぐになくなっちゃうじゃない。わたしは自分のを開けるから」

 のりこさんが遠慮をすると、いいのいいの、とみつこさんは個装された鳩サブレ―の袋をぶらぶらと揺らすので、のりこさんはありがたく頂戴することにしました。

 そしてふたりして、袋をぴりりと破き、鳩サブレ―を口にします。バターと砂糖の甘くこうばしい匂い。ザクザクッとした音を響かせながら、粉を落とさないよう気をつけながら食べます。

「おいしい」とのりこさんはつぶやき、「なつかしい」とみつこさんはつぶやきました。

 鳩サブレ―は昔も今も変わらずに優しい甘さの素朴な味わいで、のりこさんとみつこさんのお腹は満たされ、過去の記憶でほんのすこしおセンチなったハートも癒されました。

「じゃ、ごゆっくりー」 

 と、みつこさんの声がして、静かになったのでのりこさんが座席の隙間からこっそりのぞくと、みつこさんはイヤホンを耳にさし、行きと同じく音楽を聴きながら過ごすようでした。ならばのりこさんも行きと同じく読書の続きをしようかな、と思いましたが、いやいや、とやっぱりやめました。だって、せっかくのグリーン車ですもの。景色をたのしまなくっちゃと思い、のりこさんは車窓の向こうに流れる景色を、ただぼんやりと眺めて過ごすことにしました。

🕊

 ところで鳩サブレ―。
 頭のほうから食べるか尻尾しっぽのほうから食べるか、人によってまちまちなところですが、のりこさんとみつこさんは、ふたりとも、頭からではなく尻尾のほうから食べることに決めています。なんとなく頭からだと忍びない、という思いがふたりには不思議とあって、だからさっきも、示し合わせたわけではないのですが、ふたりはそれぞれ尻尾のほうから食べたのでした。

 ふたりはちょっと、似ているのです。

(了)

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豊島屋の鳩サブレ―についてのエッセイはこちらから♪

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