小説『思い出はビスケット缶のなかに』
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銀座の街を父とふたりで歩いている。
秋晴れの空の下、よそ行きのスーツで決めた父と、新しいワンピースでめかしこんだあたし。でも正直いって、気づまりだ。会話なんて、まるで弾まない。なにを話せばいいのかよく分からない。だから誕生日会なんて延期にしたらよかったのに、と思うけれど、母は「せっかく支度もしたんだし、たまには父子みずいらずで楽しんできてよ」なんて、まるで空気を読まずに呑気なことを言って、戸惑うあたしと父を無理やり家から追い出したのだ。
「まあ、お母さんもひとりの方が休めるのかもしれないから、今回だけはふたりで行こうか」
とおずおず父が言って、あたしも今月で十三歳になって多少は大人になるから、「まあ、いいけど」と渋々承諾をしてこうして銀座までやってきたものの、まわりの楽しそうな雰囲気とはかけはなれ、さっきからここだけ気まずい空気が流れている。
「お母さんがいないと、なんだか変だな」
と父が言って、
「そうだね」
とあたしも言う。
赤ちゃんのときからいつも(といっても、赤ちゃんのときのことは覚えていないけど)、こうしてあたしの誕生月にはいつも銀座にあるサロン・ド・カフェでパフェを食べることになっていて、今年も当然、めでたくその日を迎えたというのに、出かける段になって母が急に頭痛がするとか言い出して、心配するあたしと父をよそにさっさとソファに横たわった母は、手の平で追っ払うようにして件のセリフを吐いたのだった。
「やっぱり待つようだな」
人混みをかきわけながら中央通りを歩き、カフェのある赤レンガ色のビルにつくと、すでに長い行列ができていた。あたしと父は行列のしっぽについて、黙ったまま席があくときを静かに待つ。パフェが食べられるカフェはこのビルの三階にあって、あたしたちが今いる一階には宝石が入っていそうなショーケースのなか、きれいに陳列されたこのカフェのお菓子を買いに来た人たちで人垣ができていた。
「帰りにお土産買っていこうな」
父の言葉に、「…あ、うん」とそっけなく答えるのはべつに、今が絶賛反抗期中なわけではなくて、日頃あたしと父はほとんど会話をしないから、なにを話したらいいのかよく分からないのだ。
そのまま黙ったまま時間が過ぎて、待ちくたびれたころになってようやく席にとおされ、あたしと父は毎年のごとくいちごのパフェを注文した。
「たまにはふたりだけで来るのも悪くないな」
まるで内緒ごとを語るように父が声を潜めてニヤリとするから、なんだかゾッとして、
「お母さんいないとさびしいけど」
と言うと、父はみるみる顔を赤くし、
「そ、そりゃ、そうだよな。お母さん、よりによって今日、頭痛にならなくてもなあ」
と、髭のない青みがかったあごをさわりながら、父はおろおろした態度をみせた。
父はなんだか頼りない。我が家を仕切るのはいつだって母の方だ。毎年ここで行う誕生日会だって、会話の中心にいるのはいつも母で、父は添え物みたいに「うんうん」うなずいてばかりいる。システムエンジニアをしている父の帰宅は毎晩遅く、日曜日でもいないことが多いから必然的にあたしと交流する機会は減って、親友の加奈子みたいに父親と仲良し親子しちゃうなんて当然あたしには理解不能で、だから今日みたいにふたりきりになるとはっきりいって困るのだ。
「…」
「…」
沈黙がつづく。
もちろん、父が家族のために一生懸命働いてくれていることは知っているし、不器用だけれど、真面目で優しい人だということも分かっている。だから父には当然敬意は払っているのだけれど、それとこれとはべつの話。
互いに会話の糸口を見つけられないまま、行き場のない視線をシックなピンク色のきれいな内装のあちこちに泳がせていると、しばらくして待望のいちごのパフェが運ばれてきてあたしは歓声をあげた。
「おいしそう!」
「本当、おいしそうだな」
父はほっとしたように微笑むと、早速スマートフォンで写真を一枚撮影し、すぐさま母に送信している。グラスのなか、きれいにカットされたいちごがまるでお花を咲かせたように美しく盛り付けられていて、あたしも記念に一枚、上から写真を撮っていると、
「あれ、え?イ、インスタしてたっけ?」
戸惑うように父に訊かれ、
「してないよ。たんに記録してるだけ」
と答えると、父はなぜだか、そうかそうか、と安心したようにうなずいてみせた。
「じゃあ、ええっと…、菜穂、十三歳のお誕生日おめでとう!」
父からぎこちない祝福を受けて、あたしも、へへへと中途半端に笑い、それから二人して無言のままパフェを食べることに集中した。いつもなら母との会話をはさみながらゆっくりパフェを味わうのだけれど、今日は給食にがっつく男子みたいに、ひたすら無言でパフェの層を掘り続ける。でも、そんな気まずさのなかにいても、つややかないちごは甘酸っぱくて、アイスクリームの甘さにも負けていないし、いちごのソースと混ぜて食べれば、うーん、しあわせだあ。
「なに?」
父のニヤニヤ視線に気がついて訊くと、
「い、いや、ここのパフェ、やっぱりおいしいよなあ、うん」
と父は慌てて視線をそらし、またパフェを必死に掘りはじめる。なんだかなあ、とあたしは思う。なんだか父といると、むずむずするのだ。
例年と比べて二倍速でパフェを食べ終えたあとは、父は珈琲を、あたしは紅茶を飲んだ。椅子に置かれた柔らかなクッションに背をあずけながらくつろいでいると、沈黙に耐えかねたのか父が咳払いをし、
「そういや、お父さん、このお店のビスケット缶でお母さんにプロポーズしたんだよなあ。菜穂、この話、知ってる?」
と、いきなり話題を振ってきた。
「知ってるよ」
あたしはうなずいた。ビスケット缶でプロポーズされた話なら、母からもう何度も聞かされていた。
交際していくなかで母がアクセサリーにあまり興味がないことを知った父は、プロポーズのときに何を渡そうかと迷った末に、このお店のビスケット缶を母に贈ったのだという。夜景の見えるきれいなレストランで、緊張しきった父は震える手で紙袋からビスケット缶の入った包みをだすと、結婚してください、と母にプロポーズしたのだという。
「そりゃあ、アクセサリーにそんなに興味はなかったけど、指輪がいらないってわけじゃなかったのにねえ」
母はそのときのことを話すとき、いつも可笑しそうに笑った。お父さんってば真面目すぎて、どこかズレてるのよねえ、と母は困ったように言いながらも、でも、その表情はとても嬉しそうにみえた。
「あのときなあ、お母さん、すごいびっくりした顔して。そのあと、『わかりました、いいですよ』って、ちょっとあきれたように言ってくれたんだよね。ほっとしたなあ、お父さん」
父は照れくさそうに笑った。珍しく父の口からそんな話題を聞けて、あたしは興味津々、前のめりになった。
「でもさ、なんでビスケット缶にしたの?」
「いやだって、お母さんって、ここのビスケットみたいな人に思えたから」
「は?ビスケット?」
父は珈琲を一口飲んで、思い懐かしむように目を細めながら、
「ほら、お母さんって、見た目は可憐でエレガントだろう。高嶺の花って感じで。それなのに中身はこう気取ってなくて、素朴で、厳しさもあるけど優しい人で。お父さん、ちょうどそのとき、会社の人からこのビスケット缶のこと教えてもらってな。なんだろう、ピンときたんだよね」
と言うので、分かるような分からないような、微妙な反応をすると、
「いや、本当においしんだよ、ここのビスケット。優しい味わいで。お父さん、お母さんに渡す前に、ちゃんと自分の分も買って確かめたんだから」
と慌てて言い訳するように言うけれど、べつにそこを疑ったわけではないのに、やっぱり父はどこかずれている。
「お母さんね、今もそのビスケット缶、大事にしてるよ」
あたしはそんな父にこっそり教えてあげた。母は今もそのビスケット缶を台所の棚の奥に大事にしまっていて、ときどきそれを取り出してはこっそり眺めているのだ。
「へえ、そうなの?知らなかったなあ。なにか入れてるのかな。保管箱にも良さそうだもんね」
と父が言うので、「乾物とか入れてるみたいだよ」とあたしは言ったけれど、本当は、缶の中身は空っぽなのだった。
「なんで?なにか入れたらいいじゃん。ほかのお菓子の空き箱みたいに活用したらいいのに」
ある日、あたしが母に言うと、母はすぐさま首を横に振り、
「だめよ。菜穂には見えないかもしれないけど、ここにはちゃんと、あのときの思い出が入っているのよ。だから、他のものは一生入れちゃだめなの」
当然でしょ、と言わんばかりの表情で母は言って、空っぽの缶のなかを愛しそうに見つめたのだった。変なの、とあたしはそのとき母の横顔を見ながらそう思った。プロポーズにビスケット缶を贈る父も変だけれど、空っぽの缶を幸せそうに見つめる母もちょっと変だ。でも夫婦って、そもそも変なものかもしれない、と、そのとき、あたしはそうとも思ったのだった。
「じゃあ、そろそろ出ようか」
父が席を立ち、あたしもナプキンでもう一度口元をぬぐってから席を立って一階に降りると、
「あ、菜穂にもビスケット缶、買ってあげようか。ほら、期間限定の缶とかあるよ」
と言いながら父がショーケースのなかをのぞきこんだ。淡く輝くピンク色のビスケット缶が見本として飾られてあって、かわいくて、きれいで、すごくいいな、と思ったけれど、
「いらない」
と、あたしは言った。さっきあんな話を聞いたばかりなのに父に買ってもらうのはなんだか癪しゃくだし、あたしだってもう十三歳で、ちょっとプライドが許さない。
「こっちがいい」
それでべつのショーケースのなかにある、缶と同じデザインのカラフルなチョコレートを指さした。
「お、こんなチョコレートもあるのか。かわいいな。じゃあ、好きなの選んでいいよ」
と言われ、あたしはピンク色のと白いのを二つだけ選んだ。
「お母さんにもお土産買っていこうな。どれがいいかなあ」
父は店のなかをうろつきはじめ、それこそ宝石でも選ぶみたいに真剣にショーケースに見入っている。人差し指と親指で顎先なんてつまんじゃって、母が喜ぶ姿を想像しているみたいに口元のあたりがちょっと緩んじゃって、そんな姿を見ていたら突然、あたしの脳裏に、若かりし日の父の姿が思い浮かんだ。
それはもちろん、想像の範疇にすぎないけれど、あたしが生まれるよりずっと前、父はきっとこんなふうに嬉しそうに、そして真剣な眼差しで、ビスケット缶を買い求めにきたのだろう。そして今、そこにある幸せそうな横顔は、母がときどき空っぽのビスケット缶を眺める幸せそうな横顔とも重なってみえてきて、そしたらまたなんだかむずむずしてきた。
「うーん、このチーズケーキにするかなあ、それともショコラヴィオンの方にするか…」
父がひとり言のようにつぶやくそばであたしはぐずる子供みたいに、
「ねえ、もう早く帰ろうよお。なんでもいいって。そのチーズケーキでいいじゃん」
と適当に言って父を急かす。
「あ、ちょっと待って、お母さんからだ」
そんなあたしをよそに父はスマートフォンを見ると、
「お!お母さん、頭痛よくなったから、これからこっちに向かって合流するって」
とはじけるような笑顔をみせた。ということはつまり、母がここに到着するまでの小一時間、父とまだまだふたりきりでいるのか。もうお母さんってば、空気読んでよお。
「ええっと、じゃあ、お母さんが来るまで、ふたりでのんびり銀ぶらでもして待つか」
おどおど父が言って、
「銀ぶらってなんのこと?」と訊くと父は、
「銀座をぶらぶら散歩するっていう意味だよ。やっぱりなあ、お母さんが参加しないと、菜穂の誕生日は始まらないもんなあ」
よし、じゃあ今これ買ってくるから待っててな、と父はまた嬉しそうな笑顔をみせて、小走りで会計をしにいった。
そのやけにウキウキした背中を見送りながら、今日はあえて買わないけど、あたしもいつか大人になったらきっと、大好きな人からここのビスケット缶を贈ってもらんだ、と思った。そしてそのときにはもちろん、あたしはちゃんと素敵な指輪だって一緒にもらうんだから、と思ったら、そんなことを考えた自分が急に気恥ずかしくなってきて、そしたらまたむずむずしてきちゃって、たまらずあたしは店の外に飛び出し、多くの人が行き交う道のうえ、からっとした空気を胸いっぱい吸い込んだ。
(了)
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