三回に渡るセクシュアルマイノリティに関する投稿の締めくくりとして個人的に考える、このムーブメントが目指すべき世界観について話してみる 1.2回目では過剰なカテゴライズの弊害、セクマイ擁護ムーブメントが裏側で差別者排除ムーブメントという性格を持たないように気をつけるべきという点、マイノリティは自身の円滑な地位向上の為に不寛容なマジョリティに対して多少寛容であるべきという点に触れた。 ではそのような手段の先にある目標はどのような世界だろうか もちろん就職や社会生活で不当な差
マイノリティが権利を主張する際にはしばしば、迫害してくるマジョリティの否定が全面に出る。もちろん迫害を容認していたらマイノリティの地位は変わらないが(寛容のパラドックス)、否定の形態によっては、かえってマイノリティの地位を難しくするのではないだろうか。 SOGIを例に考える。今までは異性間恋愛や男女二元論が社会の常識であった。そして今の30代以降はそのような時代を生きて来た訳である。 しかし、ここ数年の間にlgbtムーブメンが急来し、今やSOGIという言葉に変わろうとすらし
同性愛やアスペルガー症、ADHDなどの病理化には昔から個人的に懐疑的である。個性とも言える各人の性質に名前を付ける事の弊害について考えてみる。(同性愛と異なり上記疾患には薬物療法も効果が認められており、自分の専門外であるから実際には保留させていただきたい。) 同性愛に関しては1990年以前はWHOによって正式に精神疾患として治療の対象とされていたが当事者たちの活動により1990年に脱病理が成された。では同性愛は1990年を境にいきなり異常なものから正常な個性に変化したのだろ
自己紹介を。 都内の大学二年生で植物をこよなく愛する狭間で人間関係に悩み、時には教育やジェンダー論、環境倫理学、世代間倫理に生物多様性などといった事に想いを馳せる変わり者。 今まではTwitterを自由に呟き場所としていましたが 本名で動かすTwitterアカウントでは自由な発言が出来なくなって来たのでnoteという新天地に引越ししてみました。どうなる事やら笑。 というのもやはり中高生の頃に比べるとTwitterが随分とオフィシャルな意味を帯びてきました。バイト先や配属先や