百貨店が無いまち

「百貨店が消えたまちを歩いた」というYAHOOニュースの連載を読んだ。

この連載は、私の住む島根県松江市と鹿児島を舞台にして、同じく百貨店が無くなった町としての比較や、置かれた状況の違い、町の人々へのインタビューなどで構成されている。まだ連載の途中だが、非常に興味深い内容だった。

インタビューに思うこと

百貨店の存続には、運営母体の企業の事情や訪れる人の高齢化など、様々な視点がある。しかし、私が特に注目したのは住民へのインタビューだった。

19歳の女性は「寂しいとは思うが、閉店しても困ってはいない」と述べている。また、「百貨店にはほとんど行ったことがない。洋服や化粧品はもっぱらイオンか通販」とも言っている。

一方、71歳の女性は、県が設置したお中元フェアの開催について「中元を買う場所がなく困っていたので助かる」と語り、「一畑の紙袋で包んで渡したい気持ちもある」とも言っている。

この2つの意見は、異なる世代の視点から同じことを示している。百貨店が無くなることの一番の喪失感は、欲しいものを求める人と欲しいものを提供する側の対等な立場性である。

百貨店の持つ力

現在はネットでいつでも価格や色を比較できるし、返品も可能だ。しかし、そこには無いものがある。通販で買ったものは、例えば服ならサイズが合わなければ返品するが、そうでなければ「まあ思った通り」と思いながら使う。判断基準は自分だ。

しかし、店で買ったものは、何点も鏡の前で合わせ、好きな色と似合う色が違うことに気づく。店員さんが薦めてくれたものに「着たことない色だから」と躊躇し、合せ方の指南を貰い、「あ、それなら着こなせるかも」と微かな自信と共に、新たなチャレンジをする。カッコいいけど着心地が悪いとか、肌触りが好きでない、と購入を取り止めることもある。

そこにはプロフェッショナルへの信頼がある。店の個性や店員さんの美意識は様々でも、その場所が持つ力がある。お中元を選ぶ、服を買う、目上の人へのギフトを用意する。自分が買ったものの物語を覚えている。受け取った人がギフトを受け取るときに去年と同じ包装紙に島根を思う。

時代の流れ

売上の低迷や、百貨店があることで人の流れを変えられないのは事実であり、時代の流れだ。私たちが目の当たりにしたのは、町の過疎化や百貨店の終焉だけでなく、長く続いた一つの関係性のあり方の終焉だったのだと思う。

家をネットで買う人は少ないが、これから先はそうなるかもしれない。それには信頼が必要だからだ。しかし、その信頼も時代と共に変わっていくのかもしれない。

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