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名もない主婦にも、名前はある。

ーエッセイは、すでに有名な、名の知れた人が書くことに意味がある。ー

どうやっても、その考えに行き着いてしまい、文章を書く手をとめてしまった。
あの人の日常を、思考回路を知りたい。だから読む。
となると、ただの一主婦である自分の書く文章など、一体、誰が読むのだろう。
そのぼんやりとした想いを、宙ぶらりんのまま放置して、時には忘れたふりをして、しれっと文章を書いていた。そして大体は、意味のないことに費やす時間を捻出する余裕もなく、意欲を失う。

だがしかし、ついに私は見つけてしまった。
見つけたというよりも、願ってしまったのだ。
名も顔も知らない、取り立てたポリシーのない、誰でもないあなたに、私は文章を書いて欲しい。そして、それを読みたいと。
その願いに気づかせてくれたのは、かなしくもはずかしくも主婦である私のただ一つの小さな世界・子育てする日々であった。
他にないのが悲しいけれど、日々の自分を微分していったら、子らの寝かしつけ後の粘着性の高い眠気から這い上がらねば!という気持ちにポッと火がついた。

心は毎日折れている。
もはや自分の生理的欲求をコントロールすることは難しい。睡眠も、排泄も、食事も、子どもの動きに合わせていくのが当たり前。
「予定」という概念が自分の中から消えていくことに、違和感も悲しみも恐怖すら感じず、当然の事として受け入れていることに、たった今書きながら気がつく恐怖。
そんな自分を日々支えているものはなんだろうと、立ち止まった時、私の心に浮かんだのは、高尚な本からの引用でも、憧れの先達の姿でも、ましてや子どもの笑顔でもなかった。同じ名もない主婦から何気なく発せられ、折れかかった心で辛うじて受け止めた、ひとつひとつのエピソードだった。

例えば。
何故、我が子は、何度同じことを諭しても、コップに入った飲み物をぶちまけるのだろう。根気強く、表情や言葉をかえ、巧みに演出をほどこし、時には声を荒げ、手を上げてしまい、罪悪感にさいなまれて半泣きになりながら伝えても、こぼす、絶対に。何故?どうして?
デジャヴか?と自問しながら、這いつくばって床を拭いているとき、私の中にこだまするのは、あの時耳にしたあの子の話。
「うちの子なんて、『ママ、ジャーする?』ってわざわざ聞きながら、こぼすからね〜。しなくていいよって言ってるのに!」
月齢も随分上の、しっかりしているなぁと感心していた女の子のお母さんが、笑いながら話していたのを遠巻きに聞いていただけなのに。未だに私の心を支え続けてくれている。そうか、うちだけじゃないんだ。成長過程なのかも知れない、と一瞬、ほんの少し冷静になれる。

例えば。
どうしてお皿の上の食べ物をわざわざ床に落とすのか。発狂寸前になりながら、「食べなくてもいいから、そのままにしておいて〜!」と繰り返し叫ぶ私を、どうにかこうにか正気に繋ぎとめてくれているのは、あの子の話。
「今、食べたいものだけをお皿に入れておきたいみたいなんだよね〜。ボーロとおせんべいを一緒に入れておいても、おせんべいから食べたかったら、ボーロは落としちゃうんだよ、あとで食べるつもりでも。」
おとなしくていいなぁと羨んでいた女の子のお母さんが語った、冷静な観察による考察が、苦心して作った料理を一瞬でゴミにされた私に、「本当だ…」と静かに呟かせる。

だから私も書かなくてはと思えたのだ。
書きたいではなく、書かなきゃ、と。
ポンコツだ、ドタバタだ、ギリギリだ、もうボロボロだと嘆く毎日が、もしかしたら、誰かの心のドアストッパーのように、働くかも知れない。
さぁ、書こう。
名もない主婦にだって、名前はあるのだと気づかされ、反省しながら。

麻佑子

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