捏造する記憶
今年は、夫に5年手帳をプレゼントしてもらったので、毎日欠かさずに日記をつけている。
自分で購入したり、はじめたりするときには続かないが、他人からの贈り物であるとなれば、何と無く続けなければ悪いな、という心理が働いて、今のところ無事に継続中である。
日記には、いいことしか書かない。
見返したときに、楽しいことばかりであれば、自分の人生を振り返ったときに、いい気分になれるかもしれないという、ささやかな期待からだ。
というよりもむしろ、傷ついたこと、嫌なこと、腹の立ったこと、悔しかったことなんて、そうそう忘れられるものではなし、トラウマに近く、何かにつけて思い出してしまうのだから、わざわざ日記になんて書きたくないのである。
悲しいけれど、心踊るうれしい出来事よりも、ちくりちくりと心ざわつかせることの方が、圧倒的に多いのであるから、それをこと細かく書き連ねては、膨大な量の悲しみが日記を埋め尽くすことになってしまう。
ならば、時たま起こるしあわせはもちろん、日々のなんでもない、平穏な日常の中の小さな喜びや気づき、または、「特に書くことのないほど何もおこならかった平和」を綴っておきたい。そうやって、何もない日のなかの、ささやかな幸せを探す、筋肉をつけたい。
それでも、どうしてもの最悪の日には、「今日のことは、書きたくない。」とだけ記す。わざわざ詳細を書かずとも、その一言だけで、生々しい胸の痛みをありありと思い出してしまうのだから、それだけで十分である。
もちろん、自分の心の内をつまびらかにすることで、心や頭を整理することができるのかもしれないし、心の葛藤を残しておくことは、ある種の職業の人にとっては有効かもしれないけれど。
そして、わずかな下心を告白すれば、日記は必ず、死後、家族に読まれてしまう。見送った祖父母の遺品を、残された者たちが、なんのためらいもなく回し読みする姿には、いささか抵抗を感じずにはいられなかった。
残してゆく者たちへ、ああ、お母さんは、しあわせな人生だったんだね、それならよかったね、と思ってほしいという下心がある。自分の愛する両親が、妬み嫉み後悔や憎しみを抱えたまま死んでいったと知るのは、辛い。そんな想いを愛する息子にさせたくない。そして、しあわせな人生だったと思われたいという、わずかばかりのプライドもある。
さて、これは私の実験である。
私は、私の人生を捏造する。
そうやって、自分をだまして、平和や楽しかったことだけに埋め尽くされた記録を振り返り、ああ、自分の人生、悪くなかったなぁと、自分自身にだまされたふりをしながら死んでゆきたい。
麻佑子