会話の潤滑油としての映画
以前、夫婦の会話は業務連絡になりがちだと書いた。
一緒にいる時間も、できるだけ業務を進めるための、話し合いに使いたいという気持ちがどこかにあって、「映画でも借りるか!」という、映画好きの夫の提案に、気持ちよくのれない節があった。
なかなか一緒にいる時間ないんだから、話しておかなきゃいけないことや、進めておかなくちゃいけないこと、そんなことが頭をよぎってのこと。
子どもが生まれてからは、尚更だ。
映画を観ている時間は、ただ黙って画面を見つめるしかできないと思っていた。
しかし、先日映画を観終ったあと、考えが変わった。
きっかけは、いつもの感想を語り合う時間だった。
今までも、その時間を通して、お互いの価値観について、新しい発見をすることはあった。けれど、こんな風に子どもを見守っていきたいよね、という子育てに対する視点という、二人にとって未経験の、しかし共通の課題に対して、具体的なイメージを共有して語り合うことができるという利点に、改めて気づかされたのだ。それゆえ、話が早くなることもわかった。映画は、共通理解の潤滑油だ。
それから数日して、嘘のような本当でうれしい話が舞い込んだ。
一年前より引越しを検討し続けてこのかた、ようやくめぐり逢えた理想の一室を、すんでのところで取り逃がした。
やっちゃったねーと、ほとんどあきらめかけていたところに、不動産屋のお姉さんから、「キャンセル出ました!」の一報が届いた。
ルーフバルコニー付きの夢のような物件に、胸が高鳴る。
「あのバルコニーでさー、こないだの映画みたいに、朝ごはんとか外で食べちゃったりして!」
「最高だね〜。」
また、映画のもたらす効能で、会話が弾む。
きっと、これから始まる新しい暮らしをつくっていくなかで、それぞれのなかに蓄積された映画で観たワンシーンが、共通言語として、たくさん登場することになるだろう。
たとえば、パターソンのようなリズムの生活。
たとえば、アバウト・タイムのような家族の団欒。
たとえば、アキ・カウリスマキの映画に出てくるような、壁の色。
当たり前のことかもしれないけれど、うれしかったので、ここに記しておくことにする。
そして、今夜は、小津安二郎「東京物語」を観ようと思います。
麻佑子