好きよ、東京の子育て
どうしてもの用事で、混雑する時間帯の電車に乗らなくては行けない日。
7ヶ月にして、早くも伝い歩きをする息子と一緒に乗り込むのには勇気がいる。
もう、じっとしていることに耐えきれず、大きくのけぞっては、抱っこ紐から「出せ〜、出せ〜」という趣旨の奇声を発し続けることが、目に見えているからだ。
優先席の前に進めば、ありがたいことに、席を譲っていただけることが多いのだが、先に述べたような状況に加えて、遊んでくれよと、アピールし出し、お隣の乗客のバックのファスナーを舐めはじめたり、コートのボタンを引きちぎろうとしたり、大暴れしたついでに、赤ちゃんにしてはかなり強めの蹴りをおみまいすることとなり、せっかく譲っていただいた席を、恐縮ながら返上する次第になりうる。
今朝も、「がんばろうね!」と息子の耳元に囁きながら、それは私自身を鼓舞しているだけだと、ひとり孤独な旅路に出発するような心細い面持ちで電車に乗り込んだ。
幸い、優先席の角が空いていて、そこに座る。
次に、運命を待ち受ける。
つまり、隣に座る人、前に立つ人を待つ。どんな人と乗り合わせるかによって、我々の旅路は大きく左右される。ひやひやする瞬間だ。
安堵するのは、子育てを終えた30代後半から40代の女性、おばあちゃん世代、もしくは、子煩悩なパパ、同じく子連れの方。
息子をあやしてくれたり、がんばってねと励ましの言葉を投げかけてくださったりする。
さぁ、本日の旅路はいかに!
隣は年配の女性、ただし、現役のキャリアウーマンと思しきスーツ姿。
早速、わーわー叫びはじめた息子に、「おはよう。」と落ち着いのある挨拶と深みのある微笑をたたえたのち、自らの世界へたって行かれた。
前方はどうだろう。
すでにのけぞり、抱っこ紐からの脱出を試みようとしている息子に、左斜め前から微笑みかけてくれる女性が!
息子の掌をつんつんとつついて、遊んでくれる。
「あとちょっと、がんばろうね〜。」優しい笑顔に、ほっと胸をなでおろした。
いつものことながら、ありがたくて、うれしくて、安堵して泣きそうになる。
ああよかった、と、感動に浸ったのも束の間、息子は、右斜め前方向にのけぞって何かを凝視しはじめた。
息子の視線を追いかけて、ふっと目を向けると、心がかたまった。
黄色いレンズの丸メガネに、長髪をお団子に結わえ、ひげ。フェルトハットを被り、スマホを操作する指という指に、インディアン風のゴツゴツとしたリングがはめられている。きっと、アパレル関係にお勤めの、若い男性だ。ズボンからは、シルバーのチェーンと共に、バンダナがつる下がっており、おそらく、それらすべてが、息子の好奇心をひきつけているのだと、瞬時に察知した。そせざるを得ないほど、にじり寄って(手も伸ばしはじめている)凝視している息子。
ああ、ごめんなさい…心震える。
絶対に、うざいと思われている。
スマホに夢中で、息子に気づいていなければ幸いなのだが…
さっきまで、息子と遊んでくれていた女性も、あの人は、遊んでくれないよ、と言いたげな表情で、心配そうに様子をうかがっている。
直視できず、息子の動きを制止する方向に意識を集中していた目の端に、大きなターコイズを埋め込んだシルバーリングがスマートフォンをポケットにしまう気配を感じ取った。
ああ、本当にごめんなさい。ついにあなたの気を散らしてしまったのですね…
顔を上げて、「すみません・・・」と声をかけようとしたその時、
「何ヶ月ですか?」と、黄色のレンズ越しに、お兄さんが尋ねてきた。
えっ、私に?間違いないだろう。
心配そうに見つめていた周囲の人々の、無言の「え!?」も聴きとる。
恐るおそる、「いま7ヶ月で、もうすぐ8ヶ月です・・・」と答える。
「やっぱり〜!うちも8ヶ月で、やってることがおんなじ。」
え、あ、そうなんですね!男の子ですか?そうですか〜もうじっとしてないですよね、奇声発したり・・・あはは〜、、、
(失礼ながら)、意外性に驚くと同時に、安堵。
「もうそろそろ、二回食っすよね〜」
想像をはるかに超えて、驚いた。その語彙が出てくるなんて、子どもが苦手どころか、むしろ積極的に育児に参加するイクメンではないか!
しかし、それを表す暇もなく、驚きが次々に押し寄せてくる。
「今の時期って、お風呂、シャワーっすか?やっぱ、湯船つけたほうがいいんすかね?」
「今日、初めて靴下履いてました。多分、奥さんが、寒いからって履かせたんだと思う。」
「や〜、ホント、女性の苦労、身に染みて、大変だなって感じますもん。」
「いいんです、子どもは、騒いで、泣けばいいんです。誰も嫌がる人なんて、いないっすから。」
あっという間に終点に着き、「まったなぁ〜」と息子に手を振って、人混みに消えていく腰のバンダナを見つめた。あっけに取られていると、遠くからその様子を見守っていたと思われるおばあさんたちも、その雰囲気に便乗し、「またね〜」と息子の手をにぎりに来た。息子をあやしてくれていたお姉さんも、バイバ〜イ!と手をふってくれる。
ああ、だから、私は、東京が好きだよ。
みんなが下車し、改札に向かう背中を、少し時間をおいて追いかけながら、そうごちた。
この多様性が好きだ。面白い。
東京の子育ても、全然悪くない。
今日も、老若男女、様々な外見と中身をもつ、いろんな人とふれあって、息子はすくすく育ってゆく。
麻佑子