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天国の香り

時々、どうしても食べたくなる、贔屓のケバブ屋さんがある。
電車を乗り継いで行く、仲良しの友人が住む街にあって、すでに常連になっている友人が、おいし〜よ〜っと、薄ら笑いを浮かべて連れて行ってくれたのが、きっかけだ。
初めて自分でアルバイトをして、貯めたお金で旅した国がトルコだという話をしたら、すぐに店主と打ち解け、顔なじみになるまでに、そう時間はかからなかった。
ともだちに会いに行くことを口実に、そこのケバブを食べるのが楽しみになっている。あ、ケバブ食べたい…今日、暇してるかな?と思考を巡らすことを白状すれば、ケバブを食べに行く口実に、友人に会いに行っているというのが、正直なところかもしれない。

つい先日も、無性にあの味が恋しくなり、降りるはずの駅の通過に、気がつかないふりをして、ケバブ屋のある街へ足を向かわせている私がいた。身体が欲していたらしい。
身体のサインに素直に従うと、いいことが起きる。

息子を胸に抱え、店の前に到着すると、日本語が堪能なトルコ人の店主が、いつも以上の笑顔に大きな身ぶりを加えて、熱烈に迎え入れてくれた。
彼が子ども好きなことは、すでに証明済みだ。
この店を教えてくれた友人と、初めて訪れたとき、友人の坊やに、ウィンクしながら、そっとピタパンの切れ端をあげていたのを覚えている。

「お母さん、だいじょうぶ、こちらへ。」
折りたたんだベビーカーを、率先してイートインスペースに運びながら、背中ごしにつぶやいた。

「天国の香り。」

私と息子を無事に席まで送り届けた彼は、厨房の中に戻ってこう続けた。
「赤ちゃんのにおいは、天国の香り。お母さん、天国ってどんなところか知っていますか?」
カリカリに炙った表面がたまらなく美味しい、あの肉を削りながら、私の答えを待たずに話しはじめる。
「お腹の中。お母さんのお腹の中なんですよ。私たち大人は、僕も、お母さんも、お腹の外に出たら、重ねていくだけ。悪いこといーっぱい、重ねていくだけ。」

中辛ソースに、ヨーグルトソーストッピングのいつものヤツを手渡しながら、さらに饒舌になってゆく。
「赤ちゃんはちがう。いっぱいいっぱい抱っこしてあげてください。お父さんにも抱っこしてもらってください。赤ちゃんは、抱っこして、お母さんやお父さんの悪いもの、全部吸い取って、捨ててくれるんです。」

俺にも食わせろ〜と暴れ始めた息子を制止しながら、味わう余裕なくケバブサンドにかぶりつく私を笑いながら、おー元気、かわいいね、本当にかわいいね〜と、心から自然に溢れてしまったという調子の、嫌味のない感嘆をはさみつつ、どんどん続けた。

「赤ちゃんはなぜ泣くのか知っていますか?まず、最初の2ヶ月、ママのために泣きます。次の2ヶ月、パパのために泣きます。そして最後の2ヶ月、自分のために泣きます。」
罪を重ねた両親を許してくださいと、神にお願いするんだ。許してください、許してくださいって。そして、自分も許してくださいって神様にお願いしてるの。お母さんも、僕も、みんなそうだったんだ。でも、そのことを忘れてしまっているから、赤ちゃんが泣くと怒るんだね。赤ちゃんは神様にお願いしてくれているのにね。

「だから、ほら、赤ちゃんが泣いたときは、お母さんも一緒に泣いたほうがいいかもしれないね。」
次の注文が入ったので、私と息子にウィンクを残して仕事に戻っていった。

私のために泣いてくれているの?
抱っこひもの中をのぞき込むと、息子が不思議そうにこちらを見ている。
髪の毛に、ケバブサンドからこぼれたキャベツの千切りが落ちている。

口の周りについたヨーグルトソースをぬぐって、席を立とうと腰をあげると、その気配を察知した店主が、忙しく手を動かしながら、ふりかえって軽く叫んだ。

「赤ちゃんはみんな天使!日本人もトルコ人も関係ない。みんな天使!無事に産まれてきてくれて、お母さん、本当に良かったね。ありがとう!」

税込600円のケバブサンド、安すぎやしないか?
息子の頭に鼻を押し付け、天国の香りを思い切り吸い込んだ。
天国の香りは、ケバブ風味だった。

麻佑子

#日記 #エッセイ #子育て #育児


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