保留力について
子育てをするようになってから、ラジオをよく聴くようになった。
手を動かしながら、耳を傾ける事が出来るし、子どもと2人きりの孤独な閉塞感を和らげてくれる。
いつものように、軽快な声に耳を澄ましていると、〝保留力〟という言葉が胸に留まった。
すぐには結論を出さず、ただ受け止める力のこと。そのまま保留しておく力のことだ。保留しておくことなんて、簡単に思うかもしれないが、これが案外難しい。
特に、せっかちなタチだったり、白黒にこだわるタイプの人であれば、グレーのまま置いておく、目のつくところに宙ぶらりんにしておくことは、むしろ苦行に近い(わたしはそういうタイプ)。
だからこそあえて、保留力、と言うのであろう。
20代の頃は、瞬時に判断して、ばっさばっさと切り捨てて、ずんずん前に進んでいた。
あ、好きかも、
なんか嫌かな、
もうやめちゃえ。
動物的な直感に従って、短絡的で、その場限りの判断で、勢いよく決断していた。
わからないものや、決めかねていることは目障りでしかなかった。
まるでわたしの行く手を阻む、雑草のように。
教育とは、待つことだ、と教わったことがある。
自分の働きかけが、すぐに相手に響かなくても、自分に何か返ってこなくても、信じて、10年、20年あるいはもっともっと先の何処かで、自分がかけた言葉を思い出す瞬間が1秒でもあればいい。もっといえば、自分のかけた言葉を忘れ、身に染み込み、あたかもその人自身の中から湧いた力のように、その人を助けていけばいい。そんな側面と反りが合わない気がして、すんなり教職に就くことができなかったとも言える。
しかし30をこえた今、目の前に答えを急いてはいられないことが増えてきた。
子どもの成長しかり、家族の在り方しかり、自分のキャリアプランしかり。
考えても見通しがつかないことが多すぎる。
そして、もっと目前には、果てしない家事と育児の現実(デジャヴか!?と突っ込みたくなるほどに)が常に用意されており、ゆっくり考える時間が取れない。
まず処理しなければならない現実が多すぎる。
いますぐには答えられない。
とりあえず寝かせておこう。一旦、泳がせてみる。
時間にも気持ちにも余裕なんてないけれど、曖昧をよしとする態度が備わってきた。きっと、宙ぶらりんの時間にしか処理できないこともある。
不安や気がかりがちらつく一方で、どんな風に変わっていくのか楽しみな気持ちもある。熟成の楽しみを知ったのだと言い聞かせて、グレーな海を立ち泳ぎして乗り切る毎日。
ラジオが教えてくれた、「保留力」という言葉に救われた。
いつまでたっても晴れることのないもやもやした感情、気がかり。
その気持ちに名前が与えられた途端、負い目でしかなった態度が、獲得した能力という認識に変わった。
名付けること。
その効用に、素直に驚く。
麻佑子