Mayumi

北海道在住。2ワンとノンビリ暮らすシングルマザー。平日はOLさん &フラダンサー。 ◎2021年 春 プペルトラックinいぶり実行委員会 ◎2021年 夏~ オンラインコミュニティ【蜷川組】週刊ダイジェスト編集メンバー ◎西野亮廣エンタメ研究所 ◎タムココサロン

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北海道在住。2ワンとノンビリ暮らすシングルマザー。平日はOLさん &フラダンサー。 ◎2021年 春 プペルトラックinいぶり実行委員会 ◎2021年 夏~ オンラインコミュニティ【蜷川組】週刊ダイジェスト編集メンバー ◎西野亮廣エンタメ研究所 ◎タムココサロン

最近の記事

⑰喧嘩両成敗とは思わない

昔の人は「喧嘩両成敗」って言うけど、そうだろうか? もちろん、向こうには向こうの言い分があるだろうし、向こうの周りの人からすれば、私は「突然、家を捨てて出て行ったヒドイ嫁」「子供と父親を引き離した勝手な母親」なんだろうけど・・・。 言いたい人には言わせておけば良い。 本当の事を分かってくれる人は、ちゃんと分かってくれる。 だって私は、その事を中学時代から知っていたから。それで良かった。 子供達と3人の生活は、狭くてボロい家だけど それなりに楽しく生活できるようになりました。

    • ⑯小さなおうち

      子供は1番の理解者だと思う。 私が何も言わなくても、子供達から父親のことを聞かれた事は無かった。 子供は子供なりに気を使ってくれていたんだろうな・・・。 家を出た私は、車に積んであった荷物をアパートの部屋へ降ろしてから実家へ向かい、1人暮らし時代に使っていた物や学生時代の物など実家の部屋に残っていた使えそうな物を運びました。 ベッドは折りたためるものだったので、なんとか1人でも運べたし布団や小型のチェスト、カラーボックス、フロアマットに折り畳みテーブルと少しの食器・・・ 東

      • ⑮墓場まで持って行くはずの話し

        今の名前も子供の頃の名前も同じ。 分かりやすいでしょ?ww 数年間は違う名前になってたけど、その名前は好きじゃなかったし、すぐに戻しちゃったので。 父親の事は子供達には話さないと決めていた。 だって、自分の父親がそんな人だと聞かされたら悲しくなるだろうと思ったから。 だからこれは「墓場まで持って行く」と決めていた話し。 プチ家出の後、なだめられて家へ戻ったものの家庭内は冷え切ったまま。 1つ引っかかってしまうと、今まで流せていた事も流せなくなって来るもので、色々な事がそこに

        • ⑭決めたのは自分

          この数年間はあっという間だった。 仕事、結婚、出産、子育て、引っ越し。 お腹に赤ちゃんがいながら仕事する。 小さな子供が居ても家のことして仕事もする。 手伝ってくれる人は誰も居ない。 体調も環境も色んな事が初めてで困っても誰も代わってくれやしないから どんな状況だとしても全部自分でするのが当たり前になって行く。 それって当たり前なのかな?何が当たり前なのかも分からない。 でも、それを決めたのは自分だからしょうがないと思ってた。 東京から地元へ帰り、とりあえず実家に戻ったもの

          ⑬帰郷

          時代が「平成」に代わったばかりの春。 桜が舞い散るピンク色の道を大きなトランクを持って1人で歩いて行く。 駅から、供養塔の建っているお寺までの道は桜の並木道だった。 空港へ向かう前、最後に立ち寄ったのは「あの」お寺だった。 「If・・もしも」って言葉は好きじゃないけど・・・ あの一件が無ければ。 あの時、違う選択をしてたなら。 あの頃「携帯」ってものがあったなら。 滅多に「もしも」なんて考える事は無いんだけど・・・ 数十年経った今でも1番そう考えるのは、この頃の事だと思う。

          ⑬帰郷

          ⑫時代の終わり

          時代はバブルの後半。 装飾や照明、イベントなどに高額な金額をかけてでも、どんどん開催されている頃でした。 銀座セブンの展示会場で電機メーカー新作商品イベント。 晴美埠頭のイベント会場で国際おもちゃショー。 浦安 ディズニーホテルのロビー飾り付け。 渋谷商店街のイベント用飾りつけ。 赤坂のホテルにてディナーショー用のステージデザイン。 Tv東京の音楽番組スタジオセット。 新宿ルミネのウィンドウディスプレイ。 そんな仕事で毎日が手一杯でした。 上司や先輩達と一緒にクライアント

          ⑫時代の終わり

          ⑪生きてるヤツが好きだぜ!!

          リーダー E の言葉だ。 日比谷野外音楽堂に爆音が鳴り響いたオープニングの第一声 「俺は生きてるヤツの方が好きだぜーーーっ!!」そう天を向いて叫んだ。 ずっと弟のように可愛がっていた「 I 」に向けた魂の叫びだった。 あの会場に居た全員が空を見上げ声を出して号泣していた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3月29日 家に帰ったのは19時頃だったと思う。 待っていたかのように付けたばかりの電話が鳴った。 まだ、その番号を知っていたのは、ほんの数人だったので音

          ⑪生きてるヤツが好きだぜ!!

          ⑩3月の冷たい雨

          その日は、みぞれ交じりの冷たい雨が降っていた。 私は20歳、Gは25歳だった頃の話し。 メンバー達と仲良くなった頃、そのバンド●●●の所属事務所は渋谷にありました。 私達の通う学校が原宿にあったので場所が近かった事もあり、ライブの日以外でも、ちょくちょく顔を合わせれば一緒に飲みに行くようになっていて、次のライブ場所や参加するイベントをフツーに教えてくれてました。 いつも一緒に居るメンバーも大体決まって来ていて、リーダーのEさん。ドラムのG。サックスのHくん。が定番で、それに

          ⑩3月の冷たい雨

          ⑨TOKYO

          誰も私の事を知ってる人がいない。 どこへ行っても誰も私を見ない。 何をしても誰にも何も言われない。 嬉しくて、嬉しくてウキウキ♪ワクワク♪ ここから新しい自分で居られる。 まるで生まれ変わったかのような気持ちだった。 3月。 高校の卒業式が終わって1週間後。 デザイン学校へ進学のため東京へ旅立ちました。 まぁ東京と言っても学校は原宿~千駄ヶ谷にあったけど、住んでいたのは神奈川県。 渋谷と横浜を繋ぐ東横線「武蔵小杉」駅 今では、高層マンションが立ち並ぶ大人気のエリアですが、当

          ⑧平和なJK

          高校生活は平和だ。 「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものだ。 まぁ~私の場合「3歳」ではなく「14歳」だったけど。(笑) 今、考えても私の基礎は、あそこにあったと思う。 大波乱の中学校生活を送った私にとって、平和過ぎるくらいの高校生活でした。 とはいえ、もちろん多感な青春時代ですから、それなりに色々な事はありますよ? 仲の良いお友達との恋愛話し、部活、学校祭や体育祭に修学旅行・・・ どこにでも居る、フツーの女子高生の1人だったと思います。 ただ、正直なところ高校時代の事は

          ⑧平和なJK

          ⑦燃え尽き症候群(おまけ)

          本来なら、話は高校時代へと進むのですが あれだけ動乱の中学時代を過ごした私にとっては 平和な高校生活だったので(笑) この場を借りて、ちょっとした補足をしておこうと思います。 今にして思えば・・・ あの頃は、もう既に色んな事に冷めていたのかも?しれません。 なんだか、色んな事が面倒で どーでも良くなってました。 「燃え尽き症候群」みたいな感じかな? 基本的に、私は「男運」が悪いです。 私の過去を語る上で、この先出て来る男の人は、まぁ~サイテーな人がチョイチョイおります。

          ⑦燃え尽き症候群(おまけ)

          ⑥残党

          まさか? 当時の自分は数十年も経ってから、 こうして自分の事を文字にするようになるとは、想像もしなかったと思う。 この歳になって、あの頃の事を思い出して考えるなんて思ってもみなかった。 不思議なものですね。。。 私も中学3年になり、周りは進学を目指す人と、全然そんな事なんて考えもしないで、相変わらず遊んでる人との差が出始めるようになります。 先輩たちの大事件から後は、学校も教育委員会の人が頻繁に来たりして、タバコの取り締まりや、バイク禁止の強化、服装検査など、色々な対策を

          ⑥残党

          ⑤ポニーテールと赤いリボン

          ハイティーンブギ。 元々、漫画は好きで読んでいたけど、実写映画の主演は「マッチ(近藤真彦)」で、私的にはイマイチだったなぁ・・・。 あの「モモコ」もポニーテールだったけど流行ってたワケじゃなかったと思うんだよね。 だって私の周りには、他にいなかったもん。 私は、A先輩と付き合うようになり今まで以上に、ちょっとした有名人になりました。 その頃、癖毛だった私は髪の毛を1つに結んだポニーテールにしていて、赤いリボンを付けていたのがトレードマークになっていて、しかも、自分が思ってい

          ⑤ポニーテールと赤いリボン

          ④古き良き時代

          「横浜銀蝿」「杉本哲太」「嶋大輔」 「Cools」「Black cat's」「PINK DRAGON」「CREAM SODA」 「CRS連合」「なめ猫」「ツッパリ」「竹の子族」etc・・・ この辺が分かる人は同年代ですね(笑) 昭和50年代前半 世はまさに「ツッパリ」ブーム真っ只中。 今ではスッカリ「俳優さん」として有名な 「杉本哲太」サンが横浜銀蝿の「弟分」だった事を知ってますか? 黒いライダースに白いボンタン。 革ジャンに爆音のする改造バイク。 頭をポマードでキッチリ決

          ④古き良き時代

          ③基本の「き」

          自分の話しを少しづつ順を追って書いて行くと・・・ とりあえず、基本の小学校くらいから始めようかな? 長っ!古っ!と、思っても少しだけお付き合い下さいね~。 当時、女の子の習い事では定番のピアノ。 小学校4年生くらいの時に、私と妹も もれなく一緒に通い始めました。 私的には、本当は「エレクトーン」がしたかったのですが、 当時、家には「オルガン」しかなくて、ピアノならオルガンでも練習出来るというのでピアノを習うことになりました。 ですが・・・ これは「気分屋」の先生が嫌いで「黄

          ③基本の「き」

          ②出来ると思えば出来るんです。

          少し前に、若いお友達と話す機会があり その時「もし?今、この現代で20歳に戻れるとしたら?何がしたい?」 って聞かれまして・・・ 正直、全然思いつかなかったんですよ。 それからずっと「自分は何をして来ただろう?何が出来るんだろう?」と、考えてました。 基本的には、なんでも「気合い」と「やる気」の問題だと思ってるタイプで、昭和の人間なので最後は「根性」で、なんとかなる!と思ってます。ww とにかく「やってみたくなったら絶対やりたい!」ので… まずは、やってみないと気が済まない

          ②出来ると思えば出来るんです。