子持ちシシャモが好きだったお父さんの記憶を辿る
私には『お父さん』がいない。
両親が離婚したのは、私が小学二年生の夏だった。
物心ついて、母が離婚の理由を話してくれたけど、
もうそれは離婚しかないよね…と、子どもの私が思うほど、父は破天荒な人だった。
『破天荒』と言うと聞こえはいいけど、
本当に、どうしようもない父親だったんだと思う…笑
星の数ほど男性がいるこの世の中、
よくそんな人と結婚したな…と、ある意味、母を尊敬する。
昔の写真を見たら、顔はなんとなく思い出すけど、
正直、私には父親の記憶がほとんどない。
母に聞いたら、
『休みの日は、よく遊んでくれてたよ』と話してくれたけど、
全くと言っていい程、その記憶がない。
父親に関して覚えていることは、
日曜日に、扇風機を回しながら、子持ちシシャモを食べてカープの試合中継を見ていた姿と、
私が年長のお泊まり保育か何かで、お漏らしをしてしまったときに、
家から替えのパンツを持って来てくれたことだった。
あの時は、父親に後光がさしていて、神様に見えた。
どうしてそんなことしか覚えていないんだろう。
実家に帰って、アルバムを見たら、
父親と写った写真は、かなり残っていて、
色々な場所に遊びに連れて行ってもらっていた。
写真の中の父親は、今の私と同い年くらいで、
中々のイケメンで、背も高かった。
離れてしまって寂しいと感じた記憶もなければ、
会いたいと、母にごねたことも一度もない。
私が悲しくて泣いたことと言えば、
学校を転校しなくてはならないことと、
名字を変えなければならないことだった。
その二つに関しては、
弟と一緒に、どれだけ泣いて、抵抗しようとも、
大人が決めてしまえば、もうどうにもならないんだとゆうことを知った。
悲しくて悲しくて、
それでも諦めることしかできなかった瞬間を
今でもとても覚えている。
でも、何故か父と離れることで悲しんだ記憶がない。
それくらい、父親というものは子どもにとって薄い存在なのだと思っていたし、
片親の子どもなんて、この世に数え切れない程いるんだし、
私にとって、父と離れたことは、
取るに足らないことで、大した出来事ではないと思っていた。
でも、その
『お父さんと離れても全く平気だった、小さな頃から強い私』
とゆう変な自信は、
少しずつ形を変えて、とある日に崩壊してしまった。
今、私には娘がいて、
もうすぐ、あの頃の私と同じ小学二年生になろうとしている。
娘は、『お父さん』が大好きだ。
家にいないと寂しいと言い、
仕事から帰ってきたら玄関まで走って迎えに行き、
お風呂の中では2人で大笑いし、
布団に潜り込んで、キャーキャー言いながら遊んでいる。
私に叱られた時や、イライラしてお母さんが機嫌悪そうと感じた時は、
お父さんの膝の上の安全基地に守られている。
私は、そんな娘を見ながら、ふと感じる。
もし、今、何かの理由で、
娘がお父さんと離れないといけなくなったら、
寂しいと感じないわけがないし、
どれだけ抵抗して、泣いて悲しむだろう。
そして、同時に、自分はなぜ、そうじゃなかったんだろう…と不思議な気持ちになった。
数年前、
私は、自分の仕事に活かしたいと思って、
家族カウンセリングや、子どもの心のケアについて学びに行った。
そして、そのコーチの人から、私は、私の父親について色々聞かれた。
私にとって、父親とゆう存在は、
もう、元々ないに等しいのに、どうしてこの先生は、
父親について細かく問うんだろう…と不思議に思っていた。
『お父さんとはもう会ってないの?』
『お父さんはどんな人だった?』
『どんなことを覚えてる?』
でも、私はその質問に一つ一つ答えながら、父のことを話していくうちに、
気がついたら、涙が止まらなくなっていた。
一回泣いてしまったら、もうそこからは、
嗚咽が漏れるほどに、
まるで子どものように、泣いていた。
思い返してみたら、
誰かにこんなふうにお父さんのことを話すのは初めてだった。
悲しいのか、悔しいのか、恥ずかしいのか、
寂しいのか、理由もわからずただただ、泣いた。
目はパンパンに腫れて、鼻水も凄かったと思う。
そして、ふと気が付いた。
あれ、私、お父さんと離れたこと、本当は、こんなに悲しかったんだ…と。
自分でも驚いていた。
記憶がないんじゃなかった。
もう思い出さないように、頑丈に箱に鍵をかけて、開けかないようにしていた。
相当頑丈だったし、そんな箱があることすら知らなかった。
小さいなりに、そうするしかなかったのかもしれない。
どんなに寂しくても、
自分の力で、もといた家に帰れるわけじゃないし、
父親とまた暮らせるわけじゃない。
新しい生活は、自分の意思とは反対にどんどん進んでいった。
じいちゃん、ばあちゃんとの同居、
新しい制服や、知らない方言、新しい友達、
新しい学校や、先生。
給食に出てくる牛乳パックのたたみ方を早く覚えること(これまでの四角のパックと違って、三角になって、とてもたたみづらかった。)
田舎だから、近所の人に早く馴染むこと、
おねえちゃんだから、弟もいるから、私は元気そうにしていたかった。
お母さんも大変だから、お母さんに悲しんでほしくない。
学校にも、すぐに慣れた風にしていた。
そうしたら、お母さんも、じいちゃんばあちゃんも、嬉しそうだった。
そんな思いで、子どもなりに、私も
一生懸命だった。
だから、お父さんへの想いは、きっと一時的に
シャットダウンしていたのかもしれないと、
私はとめどなく泣いて初めて、
そんなことを思った。
きっと、
これまで専業主婦だったのに、
突然働くことを余儀なくされた母も、
転校して一気にアトピーが悪化してしまった弟も、みんな一生懸命だったんだと、今ならわかる。
誰も悪くない。
小学二年生の小さな私が、
大人の私と初めて重なって、
本当は、悲しかったんだよと初めて教えてくれた。
ちゃんと思い出してあげられて良かった。
なんだか、大切な何かが自分の中に戻ってきたような感覚だった。
父親に対しても、
結局、どんな言葉をかけるか、考えたところで、
小さな私も、今の大人の私も、
『ありがとう』しかなかった。
記憶はないけれど、
娘が今、『父親』から愛されているように、
私も大切にしてもらっていたんだろう…と素直に思えた。
そんなふうに気づいてから、
私はよく、父親と別れた最後の日のことを思い出す。
小学二年生の夏の夜、
実家から15分程離れた小さなお店の前で、
父親と最後のお別れをした。
田舎なので、街灯はほとんどなくて、真っ暗で、
周りは田んぼだらけ。
夏の虫が泣いていたような気がする。
父親が送ってきてくれた車に手を振ったのは覚えている。
それが、もう最後のお別れだよ…とゆうことを母から聞かされていたかはわからないけど、
泣いている母を見て、
私も弟も泣いていた。
父親が最後、どんな顔をしていて、
どんな言葉をかけてくれたかは、やっぱり全く思い出せなかった。
車が見えなくなってすぐ、
年長さんだった弟が、急に『オシッコしたい』と言い出して、
草の方に向かって立ちションをした先に、
カマキリがいた。
そのカマキリに弟のオシッコがかかってしまい、
カマキリは大慌てで、逃げていった。
母がそれを見て泣きながら大笑いした。
私も弟も、泣きながら笑った。
私は、母が笑ってくれたことが嬉しかったことを、覚えている。
子ども心に、
こうゆう悲しい場面があっても、
『笑う』ことで癒されることが、とても心地いいことを知り、
弟が、この先もずっと、こうやって場の空気を和ませる愛すべき存在だとゆうことも、
この時から、感じていた。
そんな夏の夜の思い出も、今では愛おしい。
そして、母になった今、
娘にとって、当たり前にお父さんが存在していることが嬉しい。
小学二年生のその先も、
私が父親と過ごせなかった未来を、
娘と旦那さんは一緒に過ごしていけるんだとゆう事実が、ただ嬉しくて、幸せだと思う。
そして、あの頃、年長さんだった弟も、
今では、一児の父になった。
産まれたばかりの息子のことを嬉しそうに報告してきたり、幸せそうな弟を見て、
私はまだ幼かった弟の姿を想う。
私以上に、父親がいないことで寂しい想いをしてきただろう彼は、
自分がして欲しかったことを、子どもにしてやりながら、少しずつ父親になっていくんだと思う。
それは、彼にとって、迷いながらも、
きっと幸せな作業に違いない。
きっとこれからも、私は
娘と旦那さんがキャーキャー言って
遊ぶ声を聞きながら、
我が子にメロメロな弟を見ながら、
時々、ふと思い出したように、そんな幸せにひたる。
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