一、 美少年と永遠
「永遠の少年」というテーマで芸術新潮の特集がこれまでに二回あった。なぜここまで永遠という言葉が強調されているのだろう。それは、美少年が「永遠」ではないことを知っているからだ。
美少年の非永遠性は国を問わず述べられている。ソネット第十八番でウィリアム・シェイクスピアは、以下のように詠んでいる。
ちなみにウィリアム・シェイクスピアは十六、十七世紀に活躍したイギリスを代表する劇作家だ。実際に作品を観たことはなくても、『ロミオとジュリエット』などの作品を一度は聞いたことがあるはずだ。
当時の演劇では女性が舞台に立つことができず、少年役者が女性として舞台立っていた、ということもあり、そもそも美少年をどのような存在として捉えるのか、という部分においては議論の余地がある。しかし、シェイクスピアについて少年役者に向けて詠んだものであるらしい、という点、引用文献の「美少年」という本の最初に収録されていた点を鑑み、「美少年」について、詠んだものとして捉えたい。
日本でも美少年の非永遠性について世阿弥の『風姿花伝』の中では、一二三歳の少年は、(そもそも童形であるから何をするのも幽玄である)しかし、(この花はきわめた暁に咲く散ることのない真の花ではない、ただその年頃故に得られた仮初の花である)
(現代語訳参照 日本古典文学摘集)
美少年の美しさは、おそらく永遠ではない「刹那美」にある。直接美少年についての言及ではないが、『伊勢物語』八二段に以下のような和歌がある。
美少年に限った話ではないが、美しいものを季節や花にたとえることはままある。季節や花は移ろうものの巡り巡ってくる。ところが、今そこにいる「美少年」は来年も拝める保障はなく、その時を過ぎてしまうともう二度とお目にかかることは叶わない。
「永遠」なんて移ろいやすいこの世には一つも存在しないと言っていい。むしろ永遠どころか、刹那の瞬きさえも許されず「美少年」の時間は突然終わりを告げ、その存在を約束してくれない。
だからこそ、「美少年」に魅せられた者は何らかの形でそれを残そうとしたのだ。そしてそれを残そうとする者は、おそらく今、この場所において「美少年」ではない者たちだ。かつて「美少年」であった者も含めて、「美少年」の「幻影」を追い求める存在ではないか、また、「美少年」の「幻想」を追い求める存在である、と思っている。両者は似ているようで違う言葉だそうだ。
両者の違いについては辞書や川本三郎『大正幻想』の三章「幻影の街」の項を参照したが、「幻影」は元々存在していたもの、「幻想」ははじめから存在していなかったものを指す。時代や主な受け手の違いによって、美少年とはどのような存在であるか、の意味合いは異なってくる。大正十七年という舞台設定があるので、当時の資料からここで取り上げる「美少年」の画家の名前を挙げるならば、やはり高畠華宵だろう。
中村圭子『昭和美少年手帳』(二〇〇三年河出書房出版)によると、華宵は両性具有性が魅力であり、「読者が『美しい』と実感できる少年」を描いた初めての作挿絵画家であり、彼が「挿絵における美少年の原型を作り、その顔立ちは現在の少女漫画にまで引き継がれている」としてあるので、その系譜を辿るという意味も込めて、ここでの「美少年」は、少年愛モノなど、主に現代では女性向けの作品に登場する少年をひとまず「美少年」と呼ぶこととする。どのような要素が存在すれば「美少年」となるのかについて――「美少年」の記号性については、またどこかで考察したい。
ただ、「美少年」を考えるとき、一つだけ言えることがあるとすれば、大正時代の文豪たちが「路地裏」というものを発見したように、「美少年」も発見された存在である、ということだ。「発見」するのはいつも外側の存在なのである。当事者としては当たり前のことであり、おそらく意識する対象ではない。
松村栄子『僕はかぐや姫』のように、女の子が一度女性性を否定したくなる時期がある、というのをいくつか目にする。萩尾望都や長野まゆみが少年を描いたきっかけも、女性性からの解放、抑圧からの自由といった面からであったという。この論考は女性性の否定から少年的な方向に進んだ結果、「美少年」という概念が形成された、という立場から僕は美少年を論じようと思っている。
女の子が女性性の否定としての「美少年」を見出している一方、男の子は何をしているかというと、多分何も考えてない。知らない間に変化して少年ではなくなっていることに気づく、っていうパターンが多いのではないかと思う。少年が少年ではなくなったとき、「美少年」の面影を見出すのである。少年の恰好をすることを少年「装」と呼ばれることがあるが、男性で少年「装」するのは、大多数の男の子たちの外側に存在する人か、かつての面影・幻影を求める人ではないだろうか。
少年「装」をしている人たちは全員少年・美少年ではない。少年は何を着ても少年だし、美少年は何を着ても美少年なのである。そうではない人が少年・美少年の要素を記号化。それを享受した人が再生産するという過程で少年「装」像が構築されていった、と僕は考えている。
現在遡れた限界の美少年ソックスガーターのルーツは、おなじみ「1999年の夏休み」少女たちが少年を「装」った作品だ。現実の少年はあんなのではないし、男子校はカオス、女子校も然り。外側の人間が理想化して作り上げた「幻想」でしかない。現実を突き詰めるとそうなってしまうが、ここでは「幻想」の美少年に僕は目を向けたい。
ランニングシャツ姿で明朗闊達な腕白でたくましい美男子な美少年とは異なる「美少年」を取り上げようとしている点を了解してほしい。言うなれば、現実には存在しない「美少年」をここでは論じようとしている。
刹那美、非永遠性こそが、美少年を美少年たらしめるものであると考えられるが、「美少年」という言葉自体が非常に抽象的な概念で、何をもって美少年とするかについては議論の余地がある。
しかし、美少年という枠組みにはおぼろげながらも輪郭があり、個々の作品や絵などによってイメージされる共通項が存在する。それは美少年を永遠のものとするために彼らの外側に立つ人物たちが「美少年」像なるものを形作った。この「美少年」は「幻想」ではあるけれど、願いの集合体のようなものとして在る、と本章は締めくくりたい。