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虐殺の歴史の根っこはわたしのこころの中に

2016年にわたしか投稿したアウシュビッツ強制収容所に関する記事より

平和ってなんなのか。人間ってなんなのか。
平和構築って?自分に何がやれるのか
人間の心の闇、精神的な部分を変えるためには?
収まりきらないほど大量にある犠牲者の髪の毛を見た時、正直ぞっとした。この1本1本に生命があったのか、と。そう思ったら涙が出た。
髪の毛は撮影NGだったため写真はない。でもあの光景が、あのときの心の衝撃が頭から離れることは一生ない
ユダヤ人がユダヤ人の手によって大量に殺されていく。同胞を自分の手で殺すことへの精神的負担は計り知れない。それだけでなく、犠牲者の髪の毛を使ってじゅうたんを作らせるのもお金になる金歯を抜かせるのもすべてユダヤ人に作業をさせた。もし自分がその立場だったら?
生きていられない。地獄という言葉では表し尽くせない。
絶対に”傍観者”になってはいけない。
当時は一部の裕福な人が社会の富を独占していた。中産階級の人々はどんどん自分の物を失っていく。そういった不満や苦しみからヒトラーに頼りたい、宗教の代わりにすがりたい、任せてしまおうとドイツ国民が思った。
実はヒトラーに賛成した人よりも、賛成でも反対でもない人の方が多かった。だがそのような多数派には入っていれば安全だ と考える傍観者の人々は賛成派とドッキングしてしまった。
それを今の日本に置き換えて考えてみるとどうであろうか。私たち若者がしっかりいまの政府に関心を持ち、今日本がどうなろうとしているのか把握する必要がある。そしてそれらの動きを蚊帳の外だと思わないこと、意思を持つことが大切。グローバル化の今、自国の人間ではない人が簡単に出入りができる。そして自分とはなんぞやと考える必要が出てきて定義が必要になってくる。でも人間は自分の都合のいいように定義をしようとする。そして定義したものと異なるものを除外しようとする
その1つがヘイトスピーチ。ヘイトスピーチの5年後10年後がホロコースト。ヘイトスピーチがある際にその社会の外に自分がいると思わないこと、傍観者にならないこと。それは自分の国の今後に大きく影響するものだから。
数字では言えない心の闇がある。私たちの中に、そして社会の中に


わたしが闇を分かち合うサークルをする意味はここから始まっている。真の平和を語るのならば、世界の虐殺を自分の目で肌で、学ばないと始まらないって高校生のときにわたしは思った。だから足を運んできた。結果、すべては人間の心の闇だった。そしてその闇はわたしの中にもあった。だからこそ、このサークルはある意味でいちばんの平和活動行為だとも思っている。


ポルポトの虐殺をカンボジアで見てきて

アウシュビッツの虐殺をポーランドで見てきて

ぜんぶすべては、

人間の

怯え

脅かされるかもしれないという不安と恐怖

から、全てが始まっているのだと分かった。


あんなにも強く大きな『残虐』

なんて、か弱い『こころ』から始まっていたのだろう。


あの頃生きてたひとたちが

鬱憤を晴らしたくなったひとたちが

自分たちの立場を守りたかった人たちが

脅かされるという不安と恐怖と隣り合わせに生きてた人たちが

もしも、

自分のマイナスの感情を

自分の中の汚い、ずるい、残虐なこころを

自分の心の闇を

そのままに誰かに受け取ってもらえたなら

誰かと分かち合えたなら

その人の中のこころに「安心」が生まれたなら

同じように残虐な行為をしてたのだろうか。


そんなことをわたしはおもう。


大きく見える残虐という歴史も

根っこを辿れば、人間のこころのなかにある。

誰しもが持っているものから、始まっている。

あのとき、

多数派に流れたひとと

あのとき

残虐な行為を選んだひとと

おなじこころの種がわたしの中にもある。

なにか、気の狂った変わった人間が

残虐という歴史をつくったのではないのだ。


だからこそ、

自分の中にいる闇に

真っ向勝負で光をあてる。

ゆるす。

そう思っちゃうよねって

こわいんだよねって。

いい部分だけじゃなく

陰の部分も

闇の部分も

まるごと愛してわたしは生きたいんだ。


いつか子どもたちのまえに

せんせいとして、わたしが立つときに

ほんとうの平和を

ほんとうにたいせつなことを

ほんとうのこころを

薄っぺらい言葉じゃなく

自分の言葉で語れるように、

わたしはなりたい。


とってもよろこびます♡