真のカゾクを創る場所
note、正直、使い勝手が悪い。
なのに、ずっとずっと、降りてくる。
noteやれって。
きっとこの媒体を通して
繋がるべきひとと
出会えるのだと思う。
そう信じて、
使いにくいnoteを
がんばって書いてみようと思う。
わたしは
6月に開業して『きぼうのいえ』っていう営みをやっている。
生きづらい人
HSPの人
社会に適応できなかった人
いろんな傷を抱え生きてる人
自分の使命を生きようとしてる人
在るがままの表現をしようとしてる人
いろんなひとがいる。
いろんな人が来る。
そんないろいろな
きぼうのいえの要素の
大きな1つは
【真のカゾクを創る場所】
わたしにとっての
真のカゾクの定義、
それは、
なんの力みも必要なく
なんの強がりも必要なく
なんの鎧も必要なく
なんの抵抗も必要なく、
なんの立場も必要なく
生まれたものを
生まれたままに
言葉にすることができる
出すことができる
やりとりすることができる
そんな、
安心と
リラックスと
信頼で
繋がっている関係性。
最初から突然できるわけじゃない。
でも、合意をもって
きぼうのいえに集う仲間と
怒りも涙も笑いも分かち合って
カラフルに豊かな感情を
共にすること
勇気を出して、
本音を伝え合うこと
そういう時間が、
本当に尊い関係を生み出している。
人はみな、孤独な生き物だし
女は特に、
いかに自分の孤独と手を繋げるかだと思う。
なにかの穴を埋めるためじゃなく
なにかの寂しさを埋めるためじゃなく
なにかの傷を埋めるためじゃなく
孤独と手を繋ぎ
いち人間として立っている
人と人が、ちゃんと繋がるということ、
その意味を、日々噛みしめている。
必然的に、
真のカゾクを創ろうとしたときには、
自らの実際の家族との間での
生い立ち
ストーリー
トラウマ
傷
防衛反応
と直視することになる。
人間は、
この分野がエゴと呼ばれるものの土台となっている。
これまで『自分そのもの』だと
思っていたソレは、
自分の身を守るためのもので
いまは、『わたしではない』ということを
知ってゆく。
そうやって、
《ほんとうの自分と出会う》
《ほんとうの自分に還ってゆく》
そんな姿がたくさん見れる、きぼうのいえ
極論、
自分が真の意味で
『ほんとうのわたし』で
ただただ、在るとき、
つくられる関係性は
真のカゾク以外にないのだとおもう。
どこまで偽らずに
どこまで誤魔化さずに
どこまで抵抗せずに
どこまで反発せずに
降参できるか
素直になれるか
そんな人生のゲームをしている。
とってもよろこびます♡