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1年間の若者の集いを通して感じること。
昨年の9月ごろから、月に1回から2回のペースでゆっ〜たりと若者に限定した集いを、地元である鳩山町でやってきた。基本的には、みんなで何かを作って食べる+やりたいことをやる、というスタンスは変わらず1年間やってきたつもりである。
たぶん合計で20回もやっていないこの集いだが、多様な事柄にチャレンジをし、いろいろ変化もあったと思う。「そんな地区に若者いるの?集まるの?」そのように発せられる言葉。無意識かもしれないが、そういった一言が、地域の可能性をどうでも良い上から目線で一方的に消している気がする。生まれ育った環境で否定される我々はどうすれば良いのだろうか。
求めるべきものは人数ではないということは分かりつつも、どうしても人数を見られる。活動を居場所としている人、それを生きがいと感じる人の様子はなおざりにされる。若者の会は、求めない内容があってこそだと思っている。つまり毎回の出来事はほぼ偶発的で、その場にいる人とものによって決まる。そしてそれらは平等で、誰かが権力を握り、誰かが他者に対してマウントを取り始まるものを尊敬しない。そういったゆるさを大事にしたいと思っている。
活動を始めてみて、社会教育的現場でインタビューすることの難しさも感じる。今までは比較的お客さん目線で、このような場に顔を出し、いろいろと話を伺う身だった僕。つまりは相手の想いを聞くことが多いため、そこにだとりつくための会話を慎重に探っていくことが大事となる。集いを始めてみたからこそ、自分の発する一言が気になることも多くなった。これからの活動のなかでも、メディアとしての言葉を噛み締めていきたい。
集い自体は円滑に進んでいるかどうか、僕には判断し難い。集うみんなに問うべきことなのだろうが、そういうことをして差を作るのもなんだか気持ち悪い気分。みんなとおしゃべりのなかで肌で感じ、毎回の方向性をなんとなく決め、今後の会に繋げていく。そんなことを繰り返しているだけである。目標なんてものはない。ただ、その場その場で流動的に変化してきた結果、今の形態がある。それというのはつまり、適当に役割を決め、適当に始まり、適当に片付けて、適当におしゃべりをし、適当にみんなで遊ぶということである。この適当さをみんなで感じ取り、適当に進むのがこの会の良いところだと思っている。適当というとなんだか、うまくいってないのではないかと思うかもしれない。ただ、このちょうど良いをみんなでなんとなく決めていくことこそが、適当さだと僕は思っている。