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リアルな温度はもう聞こえない22時のガーデンプレイス

 いつどんなときでも、嫌なことがあった日も、雨に降られた日も、大切なものを失くした日も、特になにも起こらなかった日も私の日常をドラマチックにしてくれる恵比寿ガーデンシネマは大切な人を必ず連れてきたくなる場所で、君とも来たいなって半年前から思ってた。念願叶った今日なのにまた私たちの距離は振り出しに戻っていて、この距離を保とうと決めたのは他でもない私たち二人だった。それは言葉によってではなく温度と瞳によって明らかになった。そうやって通じ合えるところが君や、二人の関係性の何より好きなとこだった。

 ただ隣に座って同じ映画を観て、君は仕事が押して上映ギリギリに来たもんだからろくに話もできなくて、君はハイボール私はアイスラテ。3回目のジョン・F・ドノヴァンの死と生は君と観た今日が一番アデルのRolling in the Deepに高揚した。2時間後の映画館の外は夕方より寒かった。ベンチに座って恵比寿の街全体そして夜景と、ほんの少しビルの隙間からのぞく都会の明るい暗闇に浮かんだ東京タワーを視界に入れても君のリアルな温度はもう聞こえない。22時ごろのガーデンプレイスは、時に一瞬静かになるマジックアワーが存在する。それはほんの数分、数十秒で、その魔法みたいな時間に君の隣にいられるのはたとえ温度がなかったとしても素敵。

 「君に嗅がせたくて今朝香水つけてきたのに、もう香り消えちゃった」そう言って君が差し出した手首の匂いを嗅ぐとたしかに香水の香りはしなかったけど君の匂いがした。あの夜抱きしめられたときと同じ匂いだ。瞬間、走馬灯のように脳裏にあの夜の君の部屋の情景、音、香り、五感を刺激した全てのものがまとわりついてきた。私はそのまま五感のヴェールに後押しされて手首にキスしたかったけれど今夜の二人のルールを尊重した。君が私にルールを破ってほしいと思ってることも知っていた、でも私は君に先にルールを破ってほしかった。なんでも先にはできないのが私たちの共通点でそこが愛おしい。今も。

 最後の最後までやっぱり私からは触れられなくて、こんなに近くにいるのに届かなくて改札で別れる最後の2秒 君がするっと私の手をとってなぞるように握ってそして離した。純粋な“名残惜しい”の塊が手の中に残った。またの名を“行かないで”。温度はない。振り向かない。今朝慌ててオフィスで塗ったグレージュのネイルだけが、煌々と光る駅の構内に浮かんでいた。


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