全てが愛の錯覚でできている。
愛はほとんど錯覚でできているのではないかと思う。
無論、愛とはとうてい言葉で証明できるものではない。
私は日頃から人の言葉ではなく行動を信じるよう心がけているが、むしろ行動によって愛を勘違いしてしまうことに気づいた。
いつまでも君に会いたいとかずっとこのままいられたらなんて夢想してしまうのは、いつもおよそ3ヶ月ぶりにセックスするからきつくて痛くて苦しい最初の部分、大丈夫?痛い?と甲斐甲斐しく私の前髪を掻き上げるように撫で付け、額や瞼、耳や首筋に、押し当てるだけのそれはそれは優しいキスを落とすからだ。
最初だけじゃない、ようやく痛みが消えて快感に変わってからも、あくまで私の快楽を高めることを最優先に決めていたかのような動きもそうだし、うわ言のような「会いたかった」「好き」もそうだし、許しを乞うような最後の瞬間もそうだ。
全てが愛の錯覚でできている。
しかし3時間の休憩がまだ半分は残っているのに急かすように服を着せるので、これが錯覚と気づくのはすぐのことだ。
まさに、夢から醒めたよう。
私は何かを確かめたくて、答えを探すように、あるいは少しでも君の体温を感じていたいせいもあるかもしれない、そして君は罪悪感なのか何も考えていないのか、ただ一つ分かるのは二人は全く違う思考回路のもと、まるで普通の恋人みたいに手を絡ませて道玄坂をくだっていく。指一本でも愛を感じたい。
あらゆる角度へ動き押し寄せる人の波に酔いそう。
君の腕に掴まっていないと置いていかれそう。
本格的に具合が悪くなったところで地下通路の入り口にたどり着き、遠慮がちにハグをして失われたキスを懐かしむ。
私は少しだけ腕に力を込めてまた君に会えない3ヶ月を瞬間憂い、名残惜しいのがばれないように自ら身体を引き離した。
何が本当なのだろう。
愛はどこにあって、あるいはどこにもないのだろうか。
というより「これは愛でこれは愛じゃない」と線引きできるようなものではないことも多少は理解しているつもりだ。
しかしどうしてか、君の愛が少しでも存在しているのかどうか、考えずにはいられない。
それが錯覚なのだとしても、一欠片さえ本当の愛はないのだろうかと。
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