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私たちは多分、ガラスの箱に入った偽物だった

休業のお知らせがガラスの入り口の内側から貼ってある駅前の花屋の前を通ると、つい最近までは毎日のように嗅いでいたたくさんの花々の幾重にも重なった香り、枝や水の匂いが鼻を掠めるようだった。もうそこに生きた花は一輪もないけれど。分厚いカーテンの奥、薄暗い店内を目の端っこで覗く。

もうそこにないモノに香りや感触を感じるのは、いつでも連絡すればすぐ会いにきてくれた君がだんだん遠ざかっていき、存在だけは鮮やかに生々しく私の中に残して物理的には消えてしまうのと同じだった。いや、君の場合はもっとタチが悪い。電波に乗せてメッセージはデジタルに届けてくれるのに姿とか声とか、生身の君自身には触れさせてくれないから。もしかしたらもう君はどこにもいなくて、誰かが君に成り代わって私にメッセージを送っていたとしても、それを解き明かす術がない。


子どもの頃、電話ボックスが好きだった。狭い透明の箱に入ると透明人間になれる魔法みたいだった。ここにいるのに誰も私が見えていないみたい。そしてテレホンカードでママに電話をかける。やさしいママの声が聞こえて、この布で覆われた太いコードが地下を通って家に繋がっていると想像するとなぜか安心した。そういう安らぎが君からもらえたらよかったのに。久しく見かけなくなった電話ボックスを見つけた会社帰り、ふと吸い寄せられるようにその狭い空間に身体をねじこんでみた。もう電話のかけ方さえも忘れてしまった。暗めの赤いタイトスカートからのぞく脚は自分のものながら頼りない。君がくれる温度とか、少し鼻にかかったような声とか、そういうのは好きだったけれど。なんでもう、触れられないの。


君が私に重なってたあの夜たちが嘘か幻か夢だったみたい。でも最近はこれでよかったと思えるようにほんの少しなってきた。美しくて危険な夜、大胆で危うい私たちの距離。ガラスのショーケースに入れられた薔薇は偽物。微かな苦味や土臭さ、生臭さのある植物の香りはしない。「この花はたしかに生きている」と感じるベルベットのような瑞々しい花びらの手触りも、本気で身を守る棘の鋭さも感じない。でも枯れないから忘れない。忘れない。君がくれた言葉や温度は偽物だったとしても、君の星が宿った瞳だけは本物だったはずだから。


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