運動否定論1 走らぬアキレスは走る ―ゼノンの場合―
ゼノンは運動否定論を展開したとされる。私としては、運動の定義によってはゼノンは運動肯定論となる、と考える。ここでは、まずゼノンの論理を追い、ついで運動の定義を確認する。運動の定義によっては、ゼノンが必ずしも運動を否定していないことが日の下にさらされるだろう。私は飽くまでもゼノンの思考の道筋に沿いつつ、それに最大限の好意を抱きつつ、その論理を否定してみようと考える。いわばゼノンがゼノンを否むのである。
アリストテレスはゼノンの説を次のように紹介する(phys. Z9.239b9)。「運動するものは終点へ到達するよりも前に、その半分の地点に到らねばならぬゆえ、運動することは出来ない」(『初期ギリシア哲学者断片集』「13 ゼノン」)と。仮にアキレスがトイレに慌てて行くとしよう。アキレスはまずトイレまでの距離の半分の距離を走らなければならない。次いで、その半分の距離のさらに半分の距離を走らなければならず、かくして走行距離の半分割が永久に続く。アキレスは永久に走行を続けながらも、目的地には決して到り得ない。アキレスは哀れにもトイレに到達できないのである。これがゼノンの運動否定論の骨子である。人は目的地に到り得ぬがゆえに、運動は否定されるのである。
では、運動とは何か。運動とは継起的位置変化である。物の本によれば、運動とは「点または物体が時間がたつにつれて位置を変えること」(『百科事典マイペディア』「運動(物理)」)とあり、あるいは「物体の位置が時間とともに変化すること」(『ブリタニカ国際大百科事典』「運動」)とある。この定義に従えば、走行者アキレスの位置は時間とともに変化しているので、アキレスは運動していることになる。アキレスは永久に走りながらも永久に目的地に到り得ない。目的地に到るべくアキレスは永久に運動しているのである。運動を上述にように定義すれば、ゼノンの説は運動否定論ではなく、永久運動論となる。
では、なぜゼノンの説が運動否定論となるのだろうか。それはゼノンの論理の背後には人間中心主義が潜んでいるからである。人間は意志をもった理性的存在である。理性は人間をして目的を設定せしめる。人間の行動は特定の目的に向けられた意志的動作である。ゼノンにおいては、この人間論的運動論が運動論一般に投影されたのである。運動といえば人間の運動であり、人間の運動である以上目的をもち、その目的が成就されないのであれば運動は不可能なのである。純物理的に考えれば、物体の移動に目的は不要である。石が地上に落下するとしても、石には何ら目的はないのである。ところが、純人間的に言えば、いかなる運動にも目的は不可欠である。アキレスがトイレに向かって運動しているとしたら、アキレスはきっと尿意を催しているのである。百科事典の運動の定義は純物理的であった。ゼノンはといえば、運動を人間臭く解釈したのであった。
ゼノンの説を準物理的に解すれば、それは永久運動論になるのだが、これを純人間的に捉えれば、それは運動否定論である。ゼノンは運動を人間論的にとらえたのである。かくして、走れぬアキレスは走り続けるのである。
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