「暇と退屈の倫理学」がよく分からなかったけど纏めてみた
兎がほしくて狩りをしない
狩り(ハンティング)をする人は兎が欲しいわけではない。暇と退屈を埋める「刺激」が欲しいのだ。
ハッとされらる序章から始まる本書。
曰く、ギャンブル好きも同様に「1万円くれてやろう、これでパチンコに行かないでいいね」と言われても釈然としない顔をする。
曰く、欲望の「対象」は兎だが、欲望の「原因」は気晴らしだ。
豊かな生活・余暇のある生活を求めているはずが、いざ退屈になって「自分のやりたいこと」をやるはずが、現代の「やりたいこと」は広告屋と企業に作られたものになっているようだ。
序盤から鋭い考察が飛んでくるのが、本書だ。
確かに、私の父のように狩りで山で土だらけになりながら、何時間も同じ姿勢でハンティングをするより、Amazonで兎肉を買った方が早い。銃代も浮く。
私の周囲でも何人か読んでた本書。「あぁ~、なんとなく退屈だな」と思っていた私にとってお誂え向きに違いない、と勧められて即座に買って、読んでみたが。。。
正直言うと、内容が全然分からなかった。
哲学書は苦手分野であったが、特に中盤の各偉人の「暇と退屈」に対する考察は、特に理解するのに時間がかかった(そして理解できなかった)
倫理・歴史が苦手科目であったことは学生時代から克服できていないようだ。
ただ、納得できた部分も多く、それこそ「暇と退屈」に最近悩んでいた身ととしては、為になることも多く、原因不明の暇と退屈を和らげられている気がする。
何より、「なぜ退屈と感じるのか」という原因の一端を知れたのは、退屈への処方箋として大きな手掛かりとなった。
なので、独断と偏見と浅学により、途中の哲学的歴史の部分は端折りながら、この本を纏めていく。そのため、「著者の考えていることは何か?」
を誤解している部分もあることをご容赦いただきたい。私は現代文も苦手科目だったのだ。
前置きはさておき、暇と退屈との戦いは人類史から始まる。
暇に対応できない生き物
そもそも人間は生き物として、暇に慣れていない。
元々遊動生活をしていた我らが祖先は、中緯度地域の熱帯森林の拡大により、定住生活を余儀なくされたというのが、著者の見解だ。
「食糧生産が発明されたから、定住生活が始まった」ではなく、
「定住生活が始まったから、食糧生産が発明された」が著者の見解だ。
遊動生活は、
食糧を食い荒らしても次の地域に行けばよい、
糞尿や死体の処理も必要ない。
定住生活は、
生活圏内で食料を枯渇させてはいけない(乱獲NG)、
糞尿や死体の処理が必要。
と定住生活はデメリットしかない、とのこと。
また、先祖の死体がそこにあることから「宗教」が生まれ、
食糧生産・貯蔵が生まれたので「格差」が生まれ、
イヤなやつともいなくてはいけないことから「共同体」が生まれ、
共同体の維持・格差による犯罪の防止から「法律」が生まれた、
とも言っている。
酷く納得感のある論理展開である。
しかし遊動生活が当たり前であった我らが祖先は、
常に新しい環境に赴き、リスクの察知、食料の探索と日々刺激に触れ・対応していた。
定住生活ではそれがない。
ある程度時間が経てば、リスクは凡そ把握できるし、食糧の位置も食糧生産により固定され、環境も変わらない。
そうなると、遊動生活の脳は刺激不足となり「暇を感じる」。
定住生活が始まってまだ短い我々は、生物としてこの「暇」に対応する手段を持ち得ていないらしい。
しかし時が経ち、「暇に対応できる新人類」が生まれた。
暇に対処できる新人類:有閑階級
ここで「暇」と「退屈」の違いを述べる。
暇:何もすることがない状態(客観的)
退屈:何かをしたいのにできない状態(主観的)
このように、暇と退屈は併存も独立もする。
暇だが充実している時(のんびりした休日)もあれば、
退屈だが暇ではない時(予定はあるけど物足りない)もある。
ラッセルは退屈を「事件が起こることを望む気持ちが挫かれたもの」と定義した。「事件」とは、「今日と明日を区別してくれるもの」である。
「人は考える葦である」のパスカルは実は皮肉屋だったらしく、
「人の不幸とは、人が部屋でじっとしていられないから招くのだ。じっとしていれば平和でいいものを、それができない」という本書で引用された言葉も、退屈に耐えられない人間の悲しき性を表しているようだ。
(パスカルで言えば、部屋でじっとしてて苦じゃないインドア派の皆様は、最も幸福ともいえるのかもしれない)
暇と退屈の違いは、19世紀ごろから明確になってくる。
19世紀、有閑階級(いわゆる貴族?)がいた。
彼らは仕事をする必要がない暇人(当時は誉め言葉)であると同時に、
権力の誇示として暇を見せつける必要があった。
ヴェブレンはこれを「顕示的閑暇」と名付けた。
しかし、19世紀末から富の再分配が行われ、有閑階級が凋落、事業で成功する者たちが現れた。彼らよく言えば成功者、悪く言えば成り上がり・成金は、その時に暇になった人間であり、子供の頃から暇であったわけではない。
ゆえに、暇への対処法が分からなかった、とのことだ。
有閑階級は「暇」でも「充実」させることができた、
しかし成り上がりは「暇」に対処できず「退屈」を感じていた。
(書きながら思ったが、有閑階級が暇に対処できるなら、定住生活であった「我々人類は遊動生活が長かったため、暇に対処できない」と矛盾しているような気がするが、それは私の理解が浅いためどこか読み飛ばしているだけだと思う、本当に)
このあたりから中世や近代の哲学者の例が色々出てくるのだが、その分野に明るくないのでそこはスキップしてしまう。
さて現代、神は死ぬ
神は死んだ、そして人は退屈になった
かつて人類の多くは、神によって生きる意味を与えられていた。
彼らに暇も退屈などない、使命を全うするために日々善行・修行・祈りを行う必要がある。
しかし「神は死んだ」と唱える無神論者は、自分で生きる意味を自分で見つける必要がある。
そして見つけられない場合、暇と退屈に直面してしまう。
ホモデウス(下)の大好きな一文「人は力と引き換えに、意味を放棄した」と似ている部分がある。というか、この「神の死」と「暇と退屈」の繋がりは、ホモデウスが好き過ぎる私のシナプスが勝手に作った、存在しない記憶かもしれない。知らんけど。
そして近代、我々は暇を、休みをいただけるようになった。
作られた余暇・作られた欲望
アメリカの自動車王、ヘンリー・フォードは最盛期、自動車市場の50%をフォード社の自動車で占有した。
彼の業績は枚挙に暇(いとま)がないが、ここで触れるのはフォーディズムと呼ばれる生産方式だ。特徴は3つある。
①作業者の負担が軽減される生産機器の配置(かがむ必要を無くす)
②高賃金
③1日8時間労働制
③もフォード様が作ってくれていたとは驚きだ。しかし現代の日本では、これが守られていない気もする(少なくとも私の会社ではそうだ)。日本企業の社長陣は、フォーディズムを今一度勉強してほしいものである。
フォーディズムは、フォードが心優しい人間であったから制定されたのかも分からないが、理由として一番濃いのは「一定の余暇・休息を労働者に与えた方が、生産は最大化する」というものだ。
ちなみに、この余暇でちゃんと休んでいるのか、酒に入り浸ったりしていないか、ちゃんと監視されていたらしい。フォード様を見習いすぎるのも危険かもしれない。
さらにフォーディズムは副次的な利益も齎した。
余暇と可処分所得がある状態では、自社社員もフォードを購入してくれるのである。顧客の創出と、それによる宣伝効果がある訳だ。
これにより、余暇とは資本主義により作り出されたものであり、余暇も資本主義の一部となった。
更に需要と供給についても、我々が授業で習ったこととは、異なる論旨が展開される。
需要があり、供給が生まれる訳ではない。
供給が需要を生むのである。
マーケターとして嘆かわしいが、頷ける部分である。
曰く、
誰もソフトウェアが1年ごとに最新化されることを求めていない
我々は冷蔵庫の1年ごとのモデルチェンジを求めていない
各社のスマホ競争が分かりやすい例であろう。
iPhoneの最新版を買う時、消費者は昨年モデルとのプロセッサの違いや、ズームイン可能距離まで計算に入れていない。
我々は機能を消費しておらず、最新モデルという情報を消費しているのだ。
なぜ企業はこんな細かいモデルチェンジをするのだろうか?
そうした方が売れる / そうしないと売れない、からだ。
無限の消費・有限の消費*1
情報、アイコンの消費の何がいけないのか?
曰く、無限に消費し続けることが問題らしい。
食事であれば、たまの贅沢でも満腹になればそれ以上は消費できない。贅沢は心を豊かにするために大事な営みであると、本書でも書かれている。
しかし、アイコンの消費はどうか?
「この前バズっていたレストランAに行ったの」
「え、でもまだカフェBにはいっていないの?」
このように欲望に際限がない、無限に欲し続けるのが問題とのことだ。
ここで先ほどの「余暇も資本主義の一部である」が出てくる。
今や我々にとって、余暇とは「何もしない時間」ではない「何か非生産的なことをしなくてはならない時間」と化している。
SNSが分かりやすい例だが、「〇〇をしている」と皆がひたすらに発信している。どうなれば彼らは満足するのだろう?
ちなみに私はSNS廃人だった。
Twitterは愚痴だが、Instagramは常に、映えスポット、イケている友人とのバカ騒ぎ、キレイな女性たちとのデートを投稿していた。途中から二日酔いの投稿ばかりになっていたが、今思うとそれすらも「何もしていない」ではなく、「二日酔いをしている」ことを熱心にアピールしていたのだろう。
手を変え品を変え、私の承認欲求は飽きるまで止まらなかった。
*1:著者は、実体を消費することを「浪費」、情報を消費することを「消費」と分けていたが、私が差分をとらえかねているので、纏めて「消費」と表現している。著者様、申し訳ないです。
退屈の3類型
なるほど我々は人類史で最も「暇」かもしれない。
でも優秀な広告屋が我々の暇に「欲望」を与えてくれている。
ならばなぜ「退屈」するのか?
ハイデッガーの退屈の3つの形式を見ていく。
退屈の第一形式:駅での待ち時間
田舎の駅で、電車が来るまであと50分。
スマホも充電が切れそうでYoutubeは見れない。
木を数えてみよう、ホームの端まで行ってみよう、地面に絵を描いてみよう。
時計を見るとまだ5分しか経っていない。
こういった状態が退屈の第一形式である。
我々もよく直面するであろうが、特徴は2つ。
特徴①引き止め
この時、時間が進むのが異様に遅く感じる。
ぐずつく時間に引き止めらている。
特徴②空虚放置
仕事、気晴らしが存在しない。
木を数えたり、ホームを移動したり、仕事を探しているが見つからない・またはすぐ終わる。
空虚な状況に放置される、苦痛の状態だ。
退屈の第二形式:友人とのパーティー
暇な休日に、急に友人たちから呼ばれた飲み会。
気の知れたたちとの話に花が咲き、
普段より贅沢な料理も美味しかった。
お酒も進み、大笑いして、別れて家に着く。
「今日は楽しかったな(でも本当は退屈していた、とふと気付く)」
分からないようで、なんとなく分かる状況だ。
前述の「昨日と今日が変わる事件を求める」という部分と似ているのかもしれない。
第二形式の特徴は、「退屈を乗り越える気晴らし」に退屈している、というなんとも皮肉で人間らしい状況だ。
ちなみにこれが、人間の基本世界らしい。
そして、第二形式は「正気」で第一形式は「狂気」らしい。
第一形式は、少しの時間のロスも許さない、何かやる仕事を探している「仕事の奴隷」だ。もし数分の暇さえ耐えきれない場合は、注意した方がいいかもしれない。
退屈の第三形式:最高深度
ハイデッガー曰く、第三形式はもっとも深い退屈で、もはや逃亡も気晴らしも許されない。
その第三形式とは
「なんとなく退屈だ」
である。
第三形式は急に現れる、
誰といる、
どこにいる、
どんな状況である、
など一切関係なく急に襲ってくる内なる声だ。
そして同時に強力である。
状況に関係なく「退屈」だと思わせる第三形式は、
全ての可能性を拒絶されているゆえに、
自らの有する可能性に目を向けるよう強いられている、とのことだ。
(外的環境になんとなく退屈しているがゆえに、自らの殻を破って外に飛び出さないと解消できないのが第三形式、と私は好意的に解釈している)
人間はこの「なんとなく退屈だ」という内なる声を聴かないようにするため、狩りに、賭場に、戦場に赴くらしい。
「部屋でじっとしていられないから、人は不幸になる」とのパスカルの言葉が思い出される。
環世界
どうすれば退屈から逃れられるか?
ここで「環世界」という概念が出てくる。
「その生物が観測している世界」のことだ。
例えばダニは、目が見えず耳も聞こえない。
しかし木によじ登り、通りかかった人や犬に飛びつき食事にありつく。
彼らは、主に嗅覚・体温でターゲット「らしき」ものが通りかかったを判断する。彼らかすると、犬も人も違いはない。
近くできる時間も、生物で異なる。
人間は1/18秒が「最小の時間の器」であり、1秒に18回以上同じ箇所を触られるとずっと触られていると近くするし、映画のコマは映像が変わる度にシャッターが閉じて真っ暗な画面が映るが、間隔が1/24秒なので1つの動画として我々は捉えている。
ベタという魚は最小の時間の器が1/30秒と人間より小さいため、1/24秒で自分の映像を見せられても反応できず(紙芝居に見える)、1/30秒だと反応したとの実験結果がある。
そしてこの環世界は移動可能である。
盲導犬は、自分の上に障害物があっても飼い主の環世界を把握することで、障害物が飼い主にぶつかる高さにある場合は、
迂回する。
盲導犬の例で分かるように、環世界を移動することは極めて困難だ。
人間とダニはそれぞれの環世界を行き来できない。
しかし、人間は多様な環世界を持ち、知識により移動できるとのことだ。
蜂蜜をそれぞれの環世界で観測しても、
パンケーキにかけて食べたい(大人の環世界)
クマのプーさんの好きなもの(子供の環世界)
C6H12O6だ(学者の環世界)
知識や交流でいずれの環世界も行き来できる。
さて実践である
正直に言うと、ここまで纏めたが正直言うと、上述の「環世界」と結論としての「実践編」をつなげるロジックを構築できなかった。
この記事も1年ほど前に下書きになっているのを見かけて、もういっそ公開しよう、というそのレベルだ。
ただ、理解もロジックも必要なさそうなのが実践①である。
さて、我々はいかにして暇と戦うべきなのか?
①本書を通読している時点で「暇と退屈の倫理学」をあなたは実践している
あなたは、通読の過程で、自分なりの理解の仕方を身に着けた。
通読の過程を得ることで、(暇と退屈に対する)自身の知性や本性もより気付けたはずだ。
この過程を経由せずに結論を読んだ読者は、「分かった!」つもりになる情報の奴隷となってしまう、と筆者は述べている。
このブログですら、部分的であろう。
要は、実際の本を読み、脳に汗をかき、読んでみよう。
その過程で気付く自身の知性が、暇と退屈への対抗策であるということらしい。
②贅沢を取り戻す
食事、余暇の過ごし方、何かを買う時ですら、現代人は「商品を買う」ではなく「情報を消費」している。
自分でも違いが分かっていないスマホの最新モデルをほしがるのは、そのスマホのプロセッサやカメラ機能がほしいからではなく「そのモデルが最新である」という事実がほしいからだ。
「情報の消費」に囚われないためには、「物事を浪費」しよう。
目の前の製品・食事を情報でなく、「その物質」としてちゃんと受け取ることで、「情報の消費(筆者はこれを無限の欲望とも言っている)」から脱出できる。