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「好事魔多し」という言葉につくづく縁がある男、どうも紗月皐です。
うまく進んでいたことはどこかに突然ヒビが入ることがあって、それが致命傷になりかねないことが少なくない。自分に原因があるならまだしも、必ずしもそうと言えない事柄でそういったことが生じてしまうのはもう呪いの類といってもいいのでしょうか?などとボヤいてみますが結果は変わらない、というより変えるための動きを取れていない自分がもどかしく感じます。苦しいし悔しい。
今年の春で27回目の誕生日、母が僕を産んだ年齢を越えてしまいます。
僕は自分に才能があると信じていたくて、自分は死ぬんだーなんて言いたかった年齢を迎えることになりそうで。ほんの少しだけ希望を持ちたくて、光が見えて、希望が形になって。でもどこかに落とし穴というか欠損というか、繊細すぎたり脆すぎたりする部分が存在していて。
前述した通り母が僕を産んだ年齢は越えてしまって、子供はできたけれど父親にはなれなくて、なってあげられなくて。そろそろ一年が経ちそうで。ひとときも忘れたことはなく、悲しいけれど自分を強くしてくれた出来事で。今日もお寺でご挨拶して。
何が正しくて何が間違っていたんでしょうか?
間違えたのならどこからだったのでしょうか?
そこから軌道修正はできなかったのでしょうか?
問うても問うてもどうでもいい。とりあえずよかったことにしようよ、2025年ってそういう一年にしたいですね。
書きたいことがめちゃくちゃで、書きたくないことも書いてしまって、それでもなんだか気持ちは晴れなくて、どこかに置いてしまうことができない感情の塊を電子の海に流していく作業を繰り返して、全部好事にしちゃえばいいじゃん。
生きていればいいことあるなんて嘘かもしれないけれど、生きていなければ見えない幸せはほんの少し目を凝らしたところにあるのかもしれないですね。
今年も何卒よろしくお願いいたします。