きっとギフテッドだった自分へ
こんにちは、紗月皐です。
これは自らの救済のための記事となります。ご了承ください。
まず前書きです。
先日より、『「大人のギフテッド〈高知能なのになぜ生きづらいのか?〉」(ジャンヌ・シオー=ファクシャン 著・鳥取絹子 訳)』という本を読んでいます。まだ読了しておりませんが、久しく本を読めなかったなか、ページをめくる手を止めるのが惜しいほどに面白く、そして自分との対話の進む素晴らしい一冊だ!と思いながら読んでいます。本当に面白い。
詳細は当然記載することはできませんが、その中の一部を実践することでこれからの人生に繋げたいということで、思考の整理も兼ねて自らの救済をしたいと思います。それでは。
昔の僕へ。
子供の頃から集団に馴染めませんでしたね。特定の友達のみとしかしっかり話ができず、むしろ大人の会話に混ざることが好きでしたね。あんまりでしゃばるなとも言われたけれど。感情的になることでよく怒られましたね。今だって別に理性的ではないけど、だいぶ大人になりました。
ずっと納得がしたいだけなのに、それをうまく伝えられず、いわゆる思春期に向かっていく過程でどんどん周りの期待に応えるための自分になろうとしましたね。偉い。
どれだけ頑張って結果を出しても認められないと感じて、いろんな焦りや不安を抱えながら生き続けてきましたね。いよいよ耐えかねて16歳で自殺企図しましたね。それでも生き残りました。心の底に強さと希望がないと苦しかったし生き続ける選択はできなかったと思います。ここまで生き続けてくれてありがとう。おかげさまで今はぼちぼち幸せです。
たくさん目をつけられてたくさん文句を言われましたね。今でもそういうことは少なくないですが。そんな中取捨選択とほんの少しの世渡りができるようになりましたね。納得できないことを少しだけ心の奥にしまうことができるようになりました。まだまだたくさん考えることはあるけれど、それでも進歩しましたね。
人の弱さを知って、寄り添う努力をしようと考えられるようになりましたね。昔のままならもっと傍若無人気味でわがままだったかもしれないですね。
我慢できるようになりましたね。でもその中で自分自身が守らなければいけない誇りを捨てないでいられるようになりました。ちょっとずつ自分を愛してあげられるようになりました。感情を赤裸々に吐露する回数も減りましたね。なんとかポジティブな精神や思考を持つことができるようになりました。成長だと思います。
あの時思い描いていた大人像とは違うけれど、自分なりに大人をやれていますね。できないなら違うことをやる、捨てられないなら信じ切る。それだけで自分を肯定できるようになりました。あの時思っていたよりも家族と上手く接しながら生きられてますよ、よかったね。
あの時からは考えられないくらいコミュニケーションの取り方や外見、内面を認めてくれる人が増えますよ。もがくことも多かったけれど、自分の努力や周りの人たちのおかげですね。思っていたよりモテるぞ、良かったな。
自分は常に孤独だし、孤独と向き合っているし、誰も理解してくれないとかんじることは相変わらずだけれど、それでもいいよ。理解はしてもらえなくても寄り添ってくれる人たちはいるよ。
自分を信じてくれる人がいるよ。
大丈夫だから、このまま素直でいてね。